長い期間フォローしている人のツイートは何か月も、あるいは1年以上毎日読んでいることになる 実際には会った事もないのにその人の人生の一部を共有しているとは ふしぎなきもちがする
— psalm (@psalm0909) 2017年9月8日
普通に暮らしてたら、まず言葉を交わすこともなければ、存在も知らなかったかもしれない作家の人と交流できるとか、やっぱりTwitterやってて良かったと思うのですよ。ブログでお山の大将やってる方が楽だったかも知れないけど
— 各務原 夕@デスクトップ故障中 (@nekoguruma) 2017年9月10日
ソーシャルメディアは情報の発露、共有が容易なところが特徴の一つであり、特にツイッターはその利用ハードルが低いことで、自分の内面を容易にさらけ出してしまいがち。テレビに向かっての愚痴とか、雑誌を読んでいてのツッコミとかと同レベルの気軽さで、不特定多数に向けて情報発信のツイートをしてしまう。まぁ、元々「つぶやき」という翻訳を当てはめるぐらいだから。
で、これは当方もうすうす認識はしていたのだけど。情報って人の生活において色々と影響を与えるだけでなく、考え方としては生活そのもの、人生の一要素自身でもあるのだよね。DNAだって結局生物を構築するための設計図のかたまりのようなもので、それは情報の集合体であり、その保存場所としての一様式に過ぎない。
そして自分の情報をネットに流して不特定多数の人に知らしめるってことは、自分自身の一部を他人に共有できるような形にすることに他ならない。ソーシャルメディアでフォローして、他人の情報を取得し続けていると、交流のレベルを超えて人生の一部を共有している気持ちになる。これは何も不思議な話では無く、漫画家のファンとかアイドルの追っかけとか、映画俳優を好きになったりしても生じる現象。ただしソーシャルメディアの場合は頻度も高く、より身近な情報が流れてくるケースもある。ヘッドフォンをつけて、日々好きな声優の声でキャラの語りを聞いているようなものだ。
情報の共有化は人生の共有化。しかも情報は複製され無数化されるので、自分の人生と他人の人生の間の障壁が薄らいでいく。クロード・シャノンが唱えた情報エントロピーの話のようでもあり、だとすれば情報の共有化が進むことで、自我が薄れていく、それ故に自らを確かなものとするために承認欲求が増していくってのも理解できる気がする。
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