昔は資料を探す、今はググるなんだが、自分の知らない事を探すと言う基本動作が出来ない人が、デジタル化が進んで顕在化してきた気がする。
— ふじのP (@philrinn) 2017年9月17日
出来る人と出来ない人の差が広がって、最終的にお給料に跳ね返ってますます格差になるのよ。 https://t.co/IhJQA8ERRt
頭の中に索引が出来てないと調べられない、てのはありますね。知らないことは調べられない。
— bass_ikeda (@bass_ikeda) 2017年9月17日
・手掛かりを持たない
・豪華な食事に興味が無い
・手持ちの知識で充分だと思う
→未知の領域の存在に気付かない
→調べる必要性を感じない
アニメ制作従事者と社会勉強の話はさておくとして。何か物事を調べる際に必要なのは、「何を使えばよいのか」「どうやって探すのか」というノウハウ。何もわからない人には何が分からないのかすら分からないし、分からないものをどうやって調べて分かる状態にすれば良いのかもわからない。江戸時代の人にカップヌードルを容器ごと見せても、これが食べ物であってお湯を注いでしばらく待てば食べられると理解はできないし、その正解にたどり着くまでにどうやって調べるのかも分からないって感じ。
昔から「調べる」ってのには一定の教養というかノウハウが必要だった。知識と経験を山ほどアンテナとして抱え、必要な時にはそのアンテナを使って情報を察知し、取得していく。投網とか、フックでも良いかな。とにかく、きっかけ的なものが欠かせない。
インターネットの普及浸透で、物事を調べる作業は随分と楽になり、得られる情報もけた違いに増えたし、整理も簡単になった。けれどそれはあくまでも、それらを使える人に限られる。計算の概念を知らない人、数字を知らない人には、そろばんから電卓に計算の道具が変わっても、何の価値もないってところ。
これは労働技術の二極化の話、例えばコンビニのレジ打ちが自動化されると便利にはなるし人手も節約できるけど、レジ打ちぐらいしかできない人には仕事を奪われることになる云々ってところでも指摘したけど、デジタル化によって情報の精査が楽になると、みんながハッピーになるわけじゃなく、格差が広まる局面もあるのだな、と。これを是とするか非とするかは別として。
前世紀の楽観論では「インターネットを検索すれば何でもわかるから情報の価値が相対的に下がる」などと唱えられていましたが、検索エンジンがゴミだらけになった昨今、情報の信用性を判定するための基礎教養や文献調査スキルがかえって重要になっているという...
— スドー (@stdaux) 2017年9月19日
で、ネットの普及で情報検索はしやすくなった。でもそれは必要な、正しい情報をすぐに取得できるようになったことを意味しない。ゴミ的な情報も一緒にすくい上げてしまうので、そこから取捨選別するスキルが必要になるという。先のカップヌードルのたとえなら、目の前にあるものがカップヌードルであり食べ物であることは知っていても、それが賞味期限切れであることまではチェックしないと分からない、とかね。
なんだ、よく考えて見ると世の中便利になっても良い事なんてないじゃない、不幸な人が増えるだけじゃない、という感じもするけど、結局それは変わりゆく環境の中に対応していけば良いまでの話。カップヌードルの件なら知っている人に尋ねて覚えればよいし、あるいは分かる範囲から糸をたどるように調べていくのも良い。そのためには他人とのつながりとか、基本的な知識教養が必要になる(学校の勉強が必要な理由の一つがこれ。たどる糸をたくさん用意できるからね)。
娘「AIやITで自動化されて仕事が減るって!?
— 土田善紀 (@tsuchidasama) 2017年9月16日
何を聞いたのやら・・・
わい「父ちゃんが子供の頃、切符は紙で改札は人間だったよ?
娘「全部人間が!?
わい「婆ちゃんは電話交換手って言って手動で電話繋ぐ仕事してたよ?
娘「自動で繋がらないの!?
だろ?安心しな。むしろ喜ぼう。
技術や道具が進化したら、不幸になる人が増えるだけでは...となると絶望感もあるけど、それはモノの見方次第。【道具を使うことを「邪道」とは言う人に】でも挙げたけど、結局は人が環境の変化に対応して使いこなすよう努力していけば良いまでの話。進化とでも表現できるのかな。そしてそれが出来なければ置いていかれてしまうのは、何も昨今の話ではなく、昔から連なることわりでしかないのだよね。
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