人の死との距離感と生活環境

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「嵐が丘」に限った話ではなく、日本でも本の数十年前までは色々な医療保健上のリスクがあり、あっりと人死にを身近に体験する機会が生じていた。映画だけでなく小説や漫画、テレビドラマでも日常生活の中に自分の周囲における死ってのは、ごく当たり前の話だった。感覚的には今ならば重病患者が入院している病棟で生活しているという感じかな(オーバーに思えるかもしれないけど、それほど間違ってない)。


で、人は学習でも学ぶことはできるけど、経験を経た方がよりしっかりと学びを得ることができる。その観点ではリアルな死との接触機会が無いのは、死そのものへの概念をよく把握できないことにもなる。少なくとも昔とは異なる価値観が生じているだろうな。

ゲームの中ではよく自キャラも敵キャラも死という形で無くなったり終わってしまうので、単なる数量的なものとして認識してしまうのも無理はないかもしれない。一度自キャラが死んだらそれでオシマイ、リセット技も使えないし復活もできないという厳しいルールのゲームもあるけど、本来はそれが当たり前だったりする。


トラック転生云々ってのはネタの香りが強いけど、完全に否定することもできないから困ったもので。確かにイメージしやすい、共通認識がしやすいものは受け入れられやすい。人の死が交通事故という形でニュースを介して知られる機会が多々生じている昨今では、人の死は交通事故で、というイメージが強くなるのだろうし、転生話も交通事故によるものが多かったりするのも不思議ではないのだろうな。

ああ、過労死で亡くなって転生話も最近よく見られるようになったけど、これもあるいは...と思うと色々と複雑な感はある。

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このページは、不破雷蔵が2017年10月31日 07:06に書いた記事です。

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