「新聞の言論 その荒廃ぶりを憂える」

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政治は言葉だ、といわれる。みずからの理念を人の心にどう響かせるか。それが問われる政治の営みが、すさんでいる。


加計学園の獣医学部問題を審議した衆院文部科学委員会で、聞くに堪えぬ発言があった。他の政党の議員3人を名指しし、日本維新の会の足立康史氏が「犯罪者だと思っています」と述べた。相応の論拠を示さないままの中傷である。各党から抗議されると「陳謝し撤回したい」とすぐに応じた。その軽薄さに驚く。言論の府を何だと思っているのか。


「社説」と銘打たれている以上、実際には誰が書いたのであれ、校正や各種内容チェックを通った会社全体の意見としての公的発表であり、後で「個人の感想です」云々は一切まかりならぬということ、念のためにログを保全しようと思ったらすでに山ほどショットが取られていたということを記した上で。

今記事のタイトル通りの感想しか出てこない。昨年話題に上ってバケツ一杯の苦虫を一度にかみしめたような苦痛を味わった「日本●ね」は肯定し、「朝日新聞●ね」は否定する。ダブルスタンダード以外の何物でもない。これこそまさに言論の荒廃。両方とも否定しなければならないのは言うまでもない。自分が気に食わないからダメ、意に沿ったものだからオッケーというのは、独裁的な発想でしかない。

「朝日新聞●ね」は議員の声で感情的な意見だからダメ、「日本●ね」は政策に不満を抱える市民の表現だから善しとする。この主張が仮に正しいとすれば、「日本●ね」を肯定的に取り上げた山尾議員はどうなるのかとか、議員以外が新聞の内容に不満を抱えて「朝日新聞●ね」と表現すれば問題は無いのかとか、色々と問題が生じてしまう。

対象がなんであれ、どのような解釈ができるとしても、「●ね」などという表現を言論機関、報道機関が肯定することは、断じてならないお話。「政策に不満を抱える市民の表現だからアリ」とは、ダブルスタンダード以外の何物でも無く、報道の自害と同じ。

そもそも「表現の自由」はどうなるのかとか、会社の代表の意見の場である「社説」の内容としては、はなはだ問題があるものに違いない。果たして存在意義があるのか否かすら、頭をよぎってしまうのだな。新聞そのものに意義はあったとしても、今、中にいる人達のあれこれに意義があるのか否か、全世界は知らんと欲す。

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このページは、不破雷蔵が2017年11月20日 07:36に書いた記事です。

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