先日、経営者の方とお金について話したんですが、
— ベニガシラ 冬コミ3日目東ヤ-45b (@poppoyakiya) 2017年12月8日
「日本人は金を稼ぐことを卑しいと思う人がまだ多いけど、
金が増える=選択肢が増えると考えるべきですね。
金があれば、寄付をしたり、支援をしたり、社会に大きく貢献できる。なら稼ぐことは悪ではなく、善でしょ」
と言われ、なるほどと思いました
お金というのは様々な物品やサービス、さらには時間を指標化した概念で、紙幣や貨幣はそれを体現化するためのツールに過ぎない。いわゆるリソースとかナノマテリアルとかエーテルみたいなもので、手元にあればあるだけ色々な選択肢が増えていく。食堂で500円しかなければお好み定食しか選択のしようがないけど、3000円あればバイキングコースを選べたり、一品ものの総菜を追加で頼んだり、スイーツを加えることもできるといった感じ。
自由に使えるお金が増えれば増えるだけ、選択肢も増えていく。大学にも通えるし、旅行もできる。自分の技術を磨ける講座を受けられるし、腕を伸ばせる道具も購入できる。困っている人にアプローチをかけて手助けしたり、不足している物品を提供することもできるようになる。このようなことをできる手段を確保しようとする行為が、どうして悪なのか。
手元にある分だけ選択肢が増えていくってのは、学校での勉強とも似ているね。テストで良い点を取る、良い成績を収めるように知識を習得していけば、それだけ将来に向けた選択肢が増えていく。自分のしたいこと、天性の才能とマッチしたものがその選択肢の中にあり得ることを考えると、選択肢は多い方がよい。SFに出てくるような、生まれた時から将来の職業まで決まっているという世界がお望みならばよいけれど。
お金は尊い物であり、しまっておいて飾って崇拝すべき、しかも稼ごうとするのは良くない。お金を忌避する、言葉に出すのはよくない、タブー視するってのがあるのだけど、どうしてなんだろうなあ、と。尊い物には違いないけど、宗教観めいてしまって、逆に罰当たりなことをしているような気がする。
もしかすると、お金の賢い、本来あるべき使いかたがよく分からない、理解しきれていないので、触らぬ神にたたりなし的な印象なのかもしれない。あるいはアレかな、高度経済成長期の「エコノミックアニマル」という表現が印象操作的なものとなり、忌避感を強めてしまったのかも。......ってそもそも、高度経済成長期以前に、お金を忌避する動きってどれほどあったんだろうか。大阪と江戸との間の対立辺りからかな?
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