出羽守問題とか、取材における印象の強さによる受け手の情報の偏向性とか、現地取材という肩書を悪用した意図的な情報の偏向とかも認識されていないなあ、というのも昨日の感想。「尖がっている」で誤魔化されては困るのです。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2017年12月12日
先日の某所でのお話で思った事を覚え書き代わりとして。現場の声は大切、取材をした人の意見は絶対、リアルでの話は完璧に事実、現地での生の声は何よりも優れている。それは事実のひとつかもしれないけど、あくまでもそれはその情報を発信する人が、完全に善であり中立で公明正大であるとの前提が完全り履行された上での話。
さらに以前も触れたけど、人間の印象によるバイアスってのは結構大きくて、目の前の事象が印象的過ぎて正しい情報として取得できていない可能性がある。過度な受け止め方をしてしまうのだな。自分の想いへの偏向もよくある話。事故現場での目撃証言が、複数の聴取をつき合わせると一致しないってのも多々ある話ではある。
そして取材やらレポートやらと、意図的に現場にいる人は、その意図による偏向のフィルタをはじめから有しており、その上で情報を取得して編集し、発信していることになる。そのような問題性があると指摘されても仕方が無い情報を、完全無垢で否定の全くできない、事実の情報として受け止めるのは、大いに問題があるのだけど、その問題に気がついていないのかなあ、という感を覚えたのが昨日の話。
報道やジャーナリズムがクレームが怖くて自主規制云々という話もありましたが。実名報道、風評加害、犯罪の手法公開、自ら命を絶った人の報道など、自主規制をするべき場面ではまったく成されていないのを思い返すに、結局は自分の都合の良い判断にクレームを言い訳として使っているだけなのですね。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2017年12月12日
今日のお話からは 「ものを言えぬ空気」と言論インフレ https://t.co/zzIjMOJVSA や
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2017年12月12日
「物言えぬ社会」って「RTやいいねしてもらえない」ってことだよね https://t.co/rpmyXvLyyR を想起せざるを得ないのでした。
昨日の話としてもう一つ気になったのが、報道やジャーナリズムにおいて、クレームが怖くて自主規制をせざるを得ない、だからつまらなくなった云々というのがあった。これもよく挙げられる話ではあるのだけど、首を傾げざるを得ない。
一因としては上に挙げたような「これまで言いたい放題だったのが、相互意思疎通ができるようになって反撃を受けるようになったから、それがイヤで自主規制をせざるを得ない、それはダメだ的なことを言っている」ってのもある。
そしてもう一つは自主規制とか言ってるけど、それって都合の良い言い訳だよね、というもの。指摘した通り、自主規制で動きにくくなるというのなら実名報道とか風評加害とか、犯罪の手法を公開するとか、自殺報道関連とか、自主規制をすべきケースが多々あるのに、それはほとんどなされていない。それどころか「報道の自由」「私達記者は正義」などと反発して意図的に規制の声に反している。なぜそれらで出来て、「自主規制をせざるを得ないから云々」というところではできないのか。
要するに、自分達で都合の良い仕切り分けをして、したくないところ、手をつけたくないところは「自主規制で云々」と言い訳をして手を離したに過ぎないのではないか。「だって仕方ないじゃない、自主規制を求められてるんだからさ」という免罪符を振り回して。
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