たまに真面目な話を書きますが、おおよそエンタメ作品において、第一義は「受け手に楽しんでもらうこと」で、考証や整合性、はたまたセンスオブワンダーはそのための手段です。僕は魔術考証でよく専門家についてもらってますが、だから考証してない作品よりえらいなんて、そんな馬鹿な話はありません。
— 三田誠/Makoto Sanda (@makoto_sanda) 2017年12月24日
先のお金の話とは真逆的な内容になるけど、これもまた事実という事で。歴史考察とかならともかく、読み物としての作品の場合は最も重要なことは「受け手に楽しんでもらうこと」。つじつまや整合性、理屈などは二の次三の次。あくまでもつじつまが合う合わないは調味料的なものであり、まずはお肉本体の旨味が大切ということ。考証が無いと駄作、考証があれば良作ってことではない。
あなたが作り手なら、あなたの作品を楽しむ読者に対して、どの手段が適切か考えれば良いのです。その結果、きちんとした世界や考証が必要なら採り入れればよし、必要でなければかまわないのです。往々にして、「ゆるい方が読者と馴染み深くてよかった」ということもあります。
— 三田誠/Makoto Sanda (@makoto_sanda) 2017年12月24日
あなたが読み手なら、あなたが楽しんでいるというその事実に胸を張れば良い。それは世界で最も貴いことのひとつで、誰にも蔑まれるものではありません。本質的に、エンタメの価値とは「あなたが楽しんだかどうか」という一点にかかっており、ほかはそのための手段なのですから。
— 三田誠/Makoto Sanda (@makoto_sanda) 2017年12月24日
今流行りの(すでに流行という言葉自体がアレだけど)ラノベが好例で、考証なり設定なり理屈的な部分を後回しにして、楽しめればよいというエンタメ重視であるのなら、そういうものを求める読者向けの作品であるのなら、それはそれで良い。架空戦記小説が流行った時に出てきた、見開きページに戦闘の効果音がずらりと並ぶだけ的な描写も、それを求めている読者へのアピールというのなら、それはOK。
漫画の手法でも時折話題に上る、顔の真正面からのアップだけで後はセリフ回しのみで話を進めるというのも、それを求めている読者に向けた作風であるとの自覚があれば、そしてそれが受けているのなら問題は無し。
他方、あまりにも先鋭化すると、当然対象者の数は減ってしまう。エンタメ性と、理屈や整合性と両立させるのは受け手のハードルを下げる役割を果たす。その匙加減が難しいのだけどね。エンタメ性を追求しすぎて理屈や仕組み、社会の構造を放り投げすぎると、「そのような世界線のお話なのかな」という割り切りすら吹き飛ばし、読んでいる、目にしている作品の世界から現実に引き戻されてしまう、醒めてしまうのだな。
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