大事なのは自分の遊び方革命だ。超人スポーツやら、お笑いライブ巡りやら、ゲリラバンド活動やらに時間を割く。読んだり観たりするのも増える。この数年、読む本の量が減ってきているが、それは他に読むものが増えているせいだ。ネットのニュースやらツイートやらを大量に読んでいるから。
— 中村伊知哉 (@ichiyanakamura) 2018年1月14日
これは新聞や印刷物に関連する記事では機会ある度に語っているのだけど。紙への印刷物の販売数が減ったからといって、人の閲読機会や量、さらには文章に対する好奇心が減退しているわけじゃない。単純に新聞や書籍の販売数が減ったとしても、それがそのまま人の知的好奇心の縮小を意味するものでは無い。それらの業界の人は多分にそういう話をしてるけどね。
要は指摘の通り、文章を読むという行為におけるルートが増え、読むリソースの投入先が分散されたに過ぎない。東京から大阪に足を運ぶのに、かごに乗ったり乗馬、馬車に乗っていくのではく、電車や自動車、飛行機や船でいくようになったので、馬車などの需要が減っているよ、というのと何ら変わりは無い。
無論、新聞や本にはその媒体特有のメリットがあり、ネットでは代替できない点もある。けれど、代替できる、必要の無い領域では「じゃあ便利なネットでいいじゃん」ということになる。それが生じているのが現状な次第。
例えば米国ではすでに読書というと、紙媒体だけでなく電子書籍による閲読も含めるのが主流となっている。読書という言葉は紙媒体でなくてはならないとの決まりはないってことだ。まぁ、日本語の場合「書」が紙媒体のみを表すとの解釈もあろうし、微妙なところなんだけどね。
個人的には媒体が何であっても書には違いないから、電子書籍でも読書でいいじゃん、とは思うのだけど。それがだめなら、石板とか木簡とか羊皮紙での文章も読書とは言えないよね、ならば昔の人は読書をしてなかったの? ってことになるんじゃないかな。
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