他人の給料を見て「アイツは贅沢だ!」と叫ぶのが正義の時代があった。
— エターナル総書記 (@kelog21) 2018年2月3日
公務員を筆頭に公的機関やそれに準ずる企業が民衆の標的にされた。
政治がそんな声を煽って無駄削減事業仕分けを進めた結果、多くの一般人が無駄と呼ばれ首を切られ、家族諸共貧困層に陥った。
他人を妬んでも成長はない。
何が間違っているのか?
— エターナル総書記 (@kelog21) 2018年2月3日
高校出て40年間以上も毎日食事を作り続ける勤労者の価値が低いとでも?
RT @1T7D8kzvqPO7gSm: @kelog21 学校の校長と市バスの運転手、給食のおばちゃんの給料が同等だった時代を正しかったとも思いませんが。
無論これだけがすべてでは無く、あくまでも理由の一つに過ぎないのだろうけど。大いに納得させられる話ではある。自分より勝っている手取りを有し、それが不当に思えるとズルい、卑怯だ、糾弾すべきだ、値を下げろと騒ぐことが正義とされていた、いや、いまでもされている、かな。それが本当に、不当な談合や何らかの悪意を持った上での結果ならば、その主張にも正当性はあるだろう。しかし例えば指摘されているようなケースの場合、それは当てはまるだろうか。
そもそも何でそのような人たちが、一定の報酬を得ているのか、それをしっかりと確認したことはあるのだろうか。見た目が簡単そうだから、俺にだってすぐにできそうだから、だからあの報酬は高過ぎる、高い分を削って、俺様に寄越せという思惑なのだろう。あるいは単にねたましい。
しっかりとした精査もせずにそのような主張、評価をする人は、単に自分の判断能力が劣っている、妬みで行動しているとアピールしているのに過ぎない。
たとえば今件ならば、「給食配膳の人の給与が高過ぎる」ではなく「校長の給与が低すぎる」と考え、校長の給与を引き上げるとするのが健全なモノの考え方。なぜそこで引き下げる方向に向かうのか。そう考えると、要は誰でもいいので、自分より手取りが多い、多そうに見える人が許せない、その怒りのこぶしを振り下ろす理由として、正当そうに見えないと自分が思っている対象を挙げているだけに過ぎない。
「アイツは贅沢だ!」と叫ぶのは構わない。でもそこで「贅沢は敵だ」とするのではなく「贅沢は素敵だ、自分達もああしたい」とするのが健全。「贅沢は敵だ」は妬みですらある。戦中の亡霊が憑りついているのだろうか。まぁ、意味の無い無駄遣いとか、無能なものによる浪費とかいうレベルだと話は別だけどね。
権力者やお金持ちが「高い車のったり高い飯をくったり贅沢することは奨励されるべきである他人の贅沢はだれかの給料に直結する」のである。
— もへもへ (@gerogeroR) 2018年2月3日
金持ちがえんえん投資市場でくるくる金まわすよりよっぽどマシやで?
こういう話も忘れちゃいけない。要は「ねたましいからあいつの給与を下げるべきだ」というのは、デフレ思考そのものなのだよね。
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