学習者端末1人1台普及の効用は教科知識スコアより記述力・文章構成力にはっきりと現れるといわれています。以前より私が作文に注目している理由です。
— 豊福晋平(GLOCOM) (@stoyofuku) 2018年1月20日
記述力・文章構成力は、新学習指導要領にもある思考・判断・表現のベーススキルとして必須ですが、大学生のレポート課題をみていても長文の論理的構成力はきわめて貧弱です。小中高を通じてほとんどトレーニングされていません。
— 豊福晋平(GLOCOM) (@stoyofuku) 2018年1月20日
日本の学校の作文は未だに手書きが原則ですし、まとまった記述を求める機会も、丁寧な添削を受ける機会もほとんどありません。「書く力が大切」とは言いつつ、実際には蔑ろにされている能力でもあり、多くの者は自ら構成を考えて書く事を苦手で苦痛なものだと刷り込まれてしまいます。
— 豊福晋平(GLOCOM) (@stoyofuku) 2018年1月20日
たまに、一発で完璧かつ構造化された文章を口述する才能をお持ちの方もいますが(私は過去現在を通じて1人しか知りません)、多くの人にとっては、何も道具を使わず複雑な文章構成をするのは困難です。学校が手書きの原則にこだわる限り、文章構成は稀少な能力にとどまり続けるでしょう。
— 豊福晋平(GLOCOM) (@stoyofuku) 2018年1月20日
思考・判断・表現のベーススキルとしての記述力・文章構成力が明確に位置付けられるなら、その能力開発と普及は急務のはずです。ところが、近年これだけ言語活動の重要性が説かれていながら、実際に学校でやっている事といえば、お気軽な話し合い活動や短文記述ばかりだったりします。
— 豊福晋平(GLOCOM) (@stoyofuku) 2018年1月20日
学習活動の思考・判断・表現のアウトプットで要求されるのは、タフな評価にも耐える構造です。記述力・文章構成力がないと精緻な構造は作れません。中途半端な手立てしか持たなければ、知識習得重視派からまた「はいずりまわる経験主義」と非難されるでしょう。
— 豊福晋平(GLOCOM) (@stoyofuku) 2018年1月20日
要は、デジタル化の浸透でパソコンの様々な機能の使いこなし、インターネットの活用は学習、創作の観点では欠かせない存在であるにも関わらず、それを前提とした教育課程がなされていない、まだあくまでもついで的な状態でしか扱われていないというもの。これは非常に納得がいく話であり、例えるならば東京から大阪に行くのにいまだに馬や早駕籠をまずは使えといっているようなもの。デスクワークをする時に電卓すら使わずにそろばんを使えとか。
新しいツールが普及浸透しているのなら、そのツールに併せて学習スタイルを学ぶべきである。その基礎となる昔のツールは、こういうものもあったんだよという形で歴史的に、そして基礎部分を後で教えて、一通り使えるようにしておけばよいまでの話。それをメインにする必要は無い。今でも水を飲むのに井戸までいけというのか。それとも教える立場にある人が気に食わない、出来ないから子供にもやらせないのか。
連続RTした件はまさに同感で、「構造的に長文を考えて書く」には明確なトレーニングが必要。「コンピュータで書く」ことは、それを補助する意味合いがきわめて大きく、書くことの本質を鍛えるのに非常に有効。その手法をきちんと学ぶ機会を与えられるべきだと本気で思っている。
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年2月19日
高校時代に小論文を学んだ時もそれを思ったし、大学>ライターと経て文章を書くたび、「手書きよりもコンピュータの方が論理的に文章を書くのが容易」であることに疑問がなくなっていく。コンピュータという道具のひとつの本質ですらある。
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年2月19日
例えば長文を書く時に、原稿用紙上にしたためていくのと、パソコン上で書くのと、双方を経験している人には、後者の技術導入による劇的な効率の向上や視野の広がりは大いに理解できるはず。それを得ることで埋もれている才能が芽生える可能性はいくらでもある。
使いこなせるツールによって才能が開花する、利便性がけた違いに向上する。その機会がありながら遮っているのは誰なのか。
......ああ、これってよくある話、Excelのマクロで効率アップしたら嫌われた云々ってのと同じ構造だわな。
コメントする