「専門家」という肩書が絶対権威の下に媒体側の主張を肯定するためのツールとして使われている感が強いのです。単にその肩書に平伏信奉するのでは無く、語り手当事者の履歴、語られている内容まで精査しなければならないのが現状。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2018年3月14日
先日の「新聞は全部真実、ネットにはフェイクニュースが一杯」と同じ構図ですね。「新聞」が絶対事実という肩書、権威として用いられてしまっている。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2018年3月14日
普通は専門家など医者や弁護士でも色々調べて選ぶのに、媒体側から出ると「選ばれた後」と言う安心感があったのだと思う。選ぶ側に圧倒的信頼感があってこそ成し得る事で。信頼が地に堕ちた所が選んだ専門家は逆に詐欺師に見られてしまう https://t.co/dMPsc8gnyn
— はーぴ (@HAHAharpy) 2018年3月14日
これは見方が色々とあって、肩書を持つ人のうちスットコな部類な人も容易に発言できるようになったからなのか、スットコな広報力を持つ界隈がスットコな専門家を御旗代わりに使う機会が増えたのか、あるいは元々そうだったのが容易に検証できるようになったまでなのか。どれか一つのみが正解では無いのだろうけど。
さまざまな「専門家」の肩書が、葵の紋所のように問答無用に内容を肯定する免罪符として使われている感じがする。それが日常茶飯事的に成されているので、専門家の言によるものだとしても、その当事者の背景や、語られている内容の一次ソースをチェックしたり、内容そのものの確からしさを確認しないと、容易に惑わされてしまう。わざわざ「語られている内容が本当だとすれば」という前提が必要になってしまう。
疑心暗鬼、人間不信、神経質という表現が使われてしまうかもしれないけど、そうせざるを得ないのが現状。
指摘されている通り、従来はそれぞれの専門家によるものならば、確からしさが保証されているという安心感があった。その専門家をチョイスした側への期待・安心度合いも高かった。けれど今では地に落ちているのが実情。専門家の話によると、的な報道も、その専門家の名前を検索すると、アレな方面の内容ばかりが出てきたり、反社活動で電波発言を繰り返していたり、報道側が期待するような意見ばかりを主張していたり。
要はお金を払って確からしさを上乗せする、読者や視聴者に信じ込ませるためのツールとしての扱いでしかないのだな。震災後の放射線関連の報道で登場した、数々の「専門家」を思い起こせば、容易に理解はできるはず。
「専門家」という肩書が絶対権威の下に媒体側の主張を肯定するためのツールとして使われている感が強い。単にその肩書に平伏信奉するのでは無く、語り手当事者の履歴、語られている内容まで精査しなければならないのが現状。
「専門家」という肩書には、特に資格はない。まぁ、有資格者なら話は別だけど、それにしたって、その資格に関わる内容ならばすべて事実、正しいとは限らない。それが可能なのは「神様」という肩書を持つお方だけ。極論として、自称すればそれで済んでしまう。当方だって今この時点から「社会学者」という肩書をぶら下げても、何の問題も無い。そして肩書を持つ人にも、多種多様な見識、意見、方向性はある。結果として、絶対権威の「専門家」が暴論を語っても、それが真実であるとして公知ができてしまう。例えばきのこが大好きな人を「お菓子の専門家」として呼び、たけのこを無視してきのこを絶賛した記事に仕立て上げることもできるわけだ。
ましてや弁護士や教員、元●×のOBなどでも、すべてその方面に関して正しい事を語る保証は無い。その上、昨今の報道姿勢を見れば分かる通り、語られた内容の主旨を違えることなく伝えていると、誰が保証できるだろうか。
この辺りの話は詰まる所、信義則の問題。期待している様態にあった仕事を成してくれるからこそ、語られている内容を一般論として、偏りのない正しいもの(少なくとも誤差領域に留まる範囲のぶれである)として信じられる。その期待のみを濫用し、それに合った仕事を成さない状態が続き、開き直りを見せるのでは、信義則も吹き飛んでしまう。それが現状。いや、元々そうだったのだけど、それが暴露されたのが現状なのかもしれない。
「報道の自由」の概念そのものがよい例。「一般市民がより健全で正しい判断ができる材料を提供するとの観点から、公明正大なスタンスを前提として、報道の自由は民主主義国家において保証されてしかるべきものとの認識」、これを遵守するからこそ、様々な特典が報道には与えられるのだけど、今はどうなんだろうな、と。先日の【放送法「政治的公平条文」撤廃に放送業界が反対するのは不思議だな】の話だけでも、正体見たり、としか反応できないのだけどね。
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