教養が無いと拒否反応が強くなる。自分の知らないことがあるとの想像もできなくなる

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これはケースバイケースですべての事例に当てはまるわけでは無いのだけど、往々にして「大体あってる」と反応せざるを得ない事例に遭遇したことがあるので、「あるある」とうなづきまくり状態だったりするお話。

ある一定の常識、知識、教養があると、自分が知っている、理解できる領域の外側に、さらなる世界が広がっている、今の自分には理解できないであろう世界があるとの認識ができるようになる。そのような世界を垣間見る機会があっても、「ああ、そういうのもあるのね」と、その内容の正しさ、正当性を認めるか否かは別として、存在自身を肯定することは容易となる。

けれどそういう考えができないと、自分の理解できる領域外にあるものが視界に入ると、その存在自身が自分の世界の否定にすらつながりかねないとの考えとなり、強い拒否反応を示してしまう。その存在自身が自分にとっては許せないものとなる。そういう文化があったのか、デ・カルチャーとか驚くことすらできず、理解できないからキモイ、排除、弾圧という感じ。

それこそ野蛮人では無いのかな、と。


結局のところ、教養のあるなしってのは自分の理解できる領域そのものの大小に加え、自分の領域以外のものに触れた時に、そういうものも存在し得るという理解に至れるか、単純に拒否反応を示すかの違いなんだろうなあ、という気がする。それは単純に知識や情報だけに限らず、それらを利用してその先にあるものまで見渡せる想像力を養っているかいなかの問題。

まぁ、その人個人だけの話なら、別に教養があろうが無かろうが、大きな問題では無いのだけど。他人にちょっかいを出してくる時点で、その辺は大きな話となる。その観点では、教養ってのはコミュニケーションの上でも欠かせないものなのだろうな、と。

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このページは、不破雷蔵が2018年3月29日 06:54に書いた記事です。

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