いやあのね、景観どころじゃないくらいデカデカと非常に見やすい表示を繰り返しても見ないやつは見ない。例えば東京の地下鉄、乗る路線さえ覚えてりゃどうでも乗り換えできるだけの表示あるんだよちゃんと。多少遠回りになるかもしれんけども間違いなく辿りつける表示になってる。
— ladysmoker (@lady_smoker_) 2018年4月3日
が、見ないやつは見ない。見てるかもしれんけどもその情報を取得できていない。だがそういうのに限って己の落ち度じゃなく表示がないとか抜かす。
— ladysmoker (@lady_smoker_) 2018年4月3日
景観は二の次で大きな表示をしている注意書きやら看板やら。そこまで大げさにしなくてもいいだろうって思う時もある。公共施設ではふと注意してその辺りを見直すと、そこまで丁寧にやらなくてもいいのに、と思うこともある。音声などでは、電車内の案内がよい例だ。
しかしながら、どれだけ親切に表示や音声案内をしても、分からない人はいる。いや、厳密には視界に入っている、耳に捉えているのだけど、それを情報として認識せず、あるいは情報として取得してもその内容を咀嚼できていない人がいる。で、指摘の通りそういう人達は結構な確率で、不親切だとか説明が足りないとだだをこねる......ってこの辺り、統計が取れればいいんだけど、考えてみると統計そのものが無理だな、これは。
当方も実際、道を聞かれたりした時に、脳内で「そこに書いてあるじゃん」「繰り返し館内で音声案内されてるけど」というツッコミをした経験があるだけに、うなづいてしまわざるを得ない。
「眺めて」はいるけど「見て(視覚情報として処理して)」はいないんですよ、あれ。>RT
— KGN (@KGN_works) 2018年4月3日
道を聞こうと食い下がってくる人の真後ろにある案内板を指さして、「あれに書いてありますよ」とやるのもしばしばです。
駅構内で馴れ馴れしく道を聞くくせに、説明しても聞いてない何も見ない中高年(特に女性)というのもいるけど、あれもいい加減うんざりするんですよね。
— KGN (@KGN_works) 2018年4月3日
あら貴方一生懸命お話してくださるのね、それで案内はまだなの?お話聞いてあげてるのに?みたいな人ね。
説明を理解して自分で見て歩いてくれと。
前にも書いたけど、ああいう人は自分の視界に案内があっても読まない、指さしながら話をしても指さしたほうを見ないで私の海をまじまじと見つめてるだけ(行き先を一緒に確認しない、案内してもらうのを待ってるだけだから不要のため)、何も自分でやる気が無いんだよねえ...https://t.co/HodiNBKdpV
— KGN (@KGN_works) 2018年4月3日
まぁ、世の中のすべての視覚・聴覚としての情報を精査して取り込んでいたら、それこそ脳がパンクしてしまう。必要だと認識した情報のみをかみ砕き、あとはノイズ的なものとしてスルーしてしまう仕組みがある。時々テレビなどで見かける、すべての見聞きした情報をしっかりと記憶してしまう人じゃないと、情報をくまなく精査するのは無理。だからこそ、情報が無いと思ったら、一度立ち止まって周囲を見回して、自分の脳が勝手に捨て去ってノイズ判断している情報の中に、必要なものが無いか否かを見返すというくせをつけるのが大切。
中には指摘の通り、そういうことをしてみましょうと案内しているのにも関わらず、それが面倒だからさっさと最適解を自分に教えろと詰め寄る人もいるのは否定しないのだけど。
......って何か既視感があるなと思いながら書き連ねていたら気がついた。これってネット内でのやり取りの中で時折遭遇する、かまってちゃんとか教えて君と大きな違いは無いわ。意思疎通の中でどうにも話がかみ合わない、理解しようとしていないのではと首を傾げるパターンがあるのだけど、それに香りが近い。思考の軸が最初からずれているのだけど、そのずれが微妙なので最初は気がつかないのだな。やり取りを見聞きしている中で、この人は話を理解していないのでは、根本的に情報を咀嚼理解していないのかも、と感じる時があり、それに近いような気がする。
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