通信社 記名の記事に しませんか 責任所在 明確すべし

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公言した、記事として公知した内容はその書き手、あるいは書き手の所属が責任を持つ。それが言論の自由、報道の自由の意味するもの。語りっぱなしで無責任ってのは、自由では無く自由奔放無責任。

新聞社の無記名記事、特に社説とか、最近では通信社の記事でよく見受けられるのだけど、書き手を明確化しなければ何を書いてもいい、どのような偏向、偏見、曲解も、公明正大的な記事として掲載公知されてしまう。何か問題があっても責任を誰も取らない。書き手が明確化されていなければその媒体全体が責を持つはずなんだけど、媒体全体の積となるとなぜかあやふや、いい加減、薄れてしまい、事実上の無法状態となっているのが現状。通信社の記事は原則無記名だからねえ......。

その当たり前の「全体で責任を取る」ってのができないのなら、やはり個々の書き手の明確化は必要不可欠であるし、その書き手による誤報、虚報、問題のある内容が成された時へのペナルティは必要不可欠。

このような話に対し「書き手が、媒体全体が萎縮する」というご意見は常にやってくる。萎縮するからあらゆる行為はフリーダムに成されねばならず、罰則などもってのほか。いや、それこそ最初に記した通り、「自由」と「自由奔放無責任」との取り違えでしかない。食堂で食事をしたら代金を払うのは当たり前の話なのに、それを指摘すると「財布の中身を考えなきゃならないから、食べることに萎縮してしまう。そんな指摘は許されない」と大騒ぎしてただ飯食らいをするようなもの。

そもそも、なぜ萎縮するからという抗議が正当性を有するのか。市民が萎縮するから警官は裸で職務に付けというぐらいなトンチキぶりでしかない。結局「萎縮するから正当性のある裏付けだとしてもそれを行使して規制をするな、ペナを与えるな」と声高に主張するのは、「私達記者は正義、だから行為の全ては正当化されるし、絶対だから誰も文句はつけるな」ということなのだろう。そう、【「高市総務相による「停波発言」と朝日新聞記者の発言と「報道」姿勢の実情をかいま見た】でも触れている、数年前の停波発言問題で逆切れした方々による意見の集約「自分達は自由奔放に何でもやる権利を持ち、それに少しでも足かせをするような奴は絶対許さない」と同じなんだろうな。

一体何様のつもりなのだろう。絶対神とかのつもりなんだろう......ってこれも【上から目線と王権神授説】でまとめてあるけど、王権神授説における王様みたいな立場だと考えているのだろうな。報道が社会的に配慮されている、優遇されているのは、社会全体に便益をもたらすから、もたらすような行為を成すからこそのものであり、その対価として優遇されているもの。現状は仕事もせずに給料寄越せと暴れまわる不良バイトみたいな状態なのだろうな。

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このページは、不破雷蔵が2018年4月 7日 07:53に書いた記事です。

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