ゲーム機というのはゲームをするために買うのではない。「その気になったらゲームできる」という安心を担保するために買うのだ。そして積む。プラモとかアウトドアギアとかもそんなアレだ。蓄えた体脂肪と似ている気がしないでもない。
— 椎名高志@50巻12/18解禁! (@Takashi_Shiina) 2018年4月8日
先日ビデオテープをサルベージしたけどビデオデッキが無いのでデータ化できないよなぁという頭抱え事案を思い出しながら、大きなうなづきを得たお話。結果として積みゲームマシンとなってしまったとしても、遊びたい時にすぐにでも遊べるという保険を得る、安心の担保のためにゲーム機は存在する。物理的な存在自身が価値となるという、非常に言いわけ的な感もあるけど、同時に納得できる話。積み本にしても積みプラにしても積みレゴにしても、そこに積まれていることが、すぐに手に取れる自分の所有物であることが、すなわちすでに価値化されているもの。物語などに出てくるハーレム的なものもとか金銀財宝に埋もれる強欲な人の話も、要はその考え方なのかなあ、と。
まぁ、体脂肪は自分の思うがままにすぐに使えるわけでは無いので、例えとしては適切では無いかもしれないけど(笑)。
「ゲーム楽しいですよ」「積むだけでなくプレイするといいですよ」って無邪気に言われると「それを知らずに好きで積んでるとでも思うのかこの野郎!!!」ってカッとなるな。でも積みプラモはそうでもない。プラモを積む罪は積みゲーより軽いのだろうか。
— 椎名高志@50巻12/18解禁! (@Takashi_Shiina) 2018年4月8日
積まれたものを実際に手に取って実用する。それはそれで楽しい。間違いない。ただ、その楽しい様子を想像するだけで瞬時にその楽しさを疑似体験できる。プラモが結構ツライとの話もあるけど、作る行程はやはり楽しいし、完成した時の達成感はすこぶる快楽を覚えたりする。ひとそれぞれってことか。
......もしかして積み系の楽しさって、いつでも手に取れるという安心感の担保の体現化と共に、作る行程を疑似体験できるVR的な装置としての役割も果たしているのかもしれないな。
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