Kindleでのポピュラーハイライトやコメントの共有は、アメリカの教科書から影響を受けた部分がある、と聞いたことがある。特に高等教育向けでは中古の教科書も多いが、それらには前の持ち主の書き込みや、その消しあとが残っていることが多く、「ここが重要」という部分が透けて来る。(続く
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年4月14日
数世代を経た中古教科書だと、そういうマーキングの痕跡から「その本の価値」が見えてくる。それをイメージしたのがポピュラーハイライトだ、と。
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年4月14日
ただし、この話は後付けで、真実ではない可能性もある。
(資料を辿らないと記憶があいまいなので)
逆に言えるのは、ストーリーものも含めて、「自分が没入し、シーケンシャルに読む本」(コミックを含め。日常消費される本の大半がそう)を想定したわけでもない、ということ。
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年4月14日
「本」の持つ機能は、内容の特質によっていろいろある、というお話。
「ポピュラーハイライト」ってのは自分が読んだ中で注目したい、覚え書き死体ハイライト部分を他人と共有する機能。「●×人がここにマーカーを引いています」という表示のやつだね。引用元では「アメリカの教科書」と指摘されているけど、少なくとも当方が大学生時代だった時には同じような仕組みがあった。教授指定の教科書とか、いわゆる過去問とかね。まぁ、それが「ポピュラーハイライト」の元ネタだったか否かという真相はさておくとしても、概念としてはニアリーイコールという指摘は間違ってない。
書籍、本の機能はそれ自身が実装しているコンテンツだけでなく、それを手に取った人の履歴......というか情報も加味されていくってのは面白い発想には違いない。書籍って本来個人ベースで楽しむものであるはずなのに、その楽しみに他人の(コンテンツの作り手以外の)意図が関与することになる。
第三者の意図がコンテンツを作り上げていくという発想は、まさに掲示板やブログのコメント欄に代表される、CMSの仕組み。アマゾンなどのレビュー部分も然り。それが役立つか否かはまた別の話だけどね(正しいもの、良いものとして生成され続けるためには、何らかのインセンティブが必要になる)。
以前も書いたが、「読書」という体験は、人間の身体性から見ればかなりプリミティブなもので、それだけに「多機能化」には向かず、その試みはわりと死屍累々。
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年4月14日
「読書」の再構築の試みが、本質的になされたことはいまだない、と思っている。
電子書籍は「シーケンシャルに読むことを前提とした読書体験の、ある部分を再構築したもの」というのが現状。だからリファレンス系に弱い。そもそもリファレンス系だと、「本」が最適かも疑問なんだが。(紙というディスプレイデバイスが適切、というときはあると思うが、それはまた別の議論)
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年4月14日
唯一、「読む」ことを再定義した可能性が高いのは「ノベルゲーム」なのだけれど、それは「読むことを再定義したい」と思った人々によってなされたのではなく、「読むことを面白いゲームにできる」と思った人々が成し遂げた。
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年4月14日
そう考えれば、読書はかなり「媒体や流通は変わっても体験の変化はない」と言える。(ウェブによる雑誌・新聞の解体は、そこに含んでもいいかもしれない。もしかしたら「なろう」的な存在も)
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年4月14日
書を読む事の行動は他との連動化が難しいという話。その観点では想いの共有化、CMS的なものってのは大きな可能性を秘めている感はある。それを容易に実現可能なのが電子書籍に他ならないという指摘も同意。
先日の「電子書籍って現状では図書館の入室権と特定の本の無制限貸出権に過ぎないじゃん」という問題もあるけど、今件で語られている話はまさに電子書籍のメリット、アドバンテージであり、電子書籍をさらによいモノ、推し進めるためのヒントというか、発展のアイディアが埋まっている気がする。頭の中に色々ともやもや感があって、具体的な形にならないのは当方の力量不足でしかないのだけど。
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