剣道20年やってた感触として、武道やってると礼儀正しくなるのではなく、人より強いという感覚を得ると傲慢で傍若無人になりがちなので礼儀をセットで教え込まないといけない、というのが正しいと思える。教わった先生はみんな本当に人格者で優れた指導者だったのだけどそれは本人の努力に過ぎない。
— Yanace (@yoh7686) 2018年3月14日
武道やスポーツなどフィジカルなコンタクトがあるものに限らず、学問でもマナーや礼儀でさえもそれを武器として振りかざせば人は傷つくので互いのため、コミュニティのためにも他人への敬意を忘れないよう戒めていく事になるのだろうと思う。 https://t.co/N1Cij6CSi3
— Yanace (@yoh7686) 2018年3月15日
某球技におけるあれこれが問題される中で、色々と納得してしまった話。タイムスタンプを見れば分かる通り、ツイートされたのは例の事案より前の話だけど。そして今件はすべての事例に当てはまるというわけじゃないけど、少なからず該当するのではないかな、と。さらにフィジカルな話に限ったものではないけれど。
自分のスキルがある程度自覚できる、さらには他から認識されると、ついその力を振りかざしてしまいたくなる。力に翻弄されるとか、強い力のとりこになるってやつ。物語で妖刀に操られて云々ってのがあるけど、恐らくはそれもこの類の一つなのでは無いかなあ、と思ったり。ともあれ、自分が他人よりも秀でているのが分かると、よほど割り切っていたり思考ベクトルが普通の人と違っていたり、何らかの経験を得ていないと、それを濫用してしまいがちになる。それは好ましい状況では無いので、併せて礼節を教え込まねばならないというもの。
力には同時に制御するものが必要となる。人の場合はそれが礼節に当たる。要は、力を持ったものの暴走を止めるための歯止めが礼節であり、力を持つ者が勝手に見につけるものでは無い、と。
で、いい感じに調子に乗ってきたぐらいのときには簗瀬さんのこの言葉を心したい。優れた能力をマウンティングに使うのは未熟な証拠。 https://t.co/wo6ocYGflV
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2018年5月21日
「俺、実はすごいんじゃないか」と勘違いすることは歓迎だ。調子に乗れるのも才能で、それが行動に繋がって何かが始まる原動力になる。ただ、それは他人への自慢や奢りとして放出するものじゃない。
— 吉藤オリィ(オリィ研究所 所長) (@origamicat) 2018年5月21日
せっかくの勘違いを他人への「俺やるよ!」という発信で消化するな。自分の活動のアウトプットに使え
表現行動が容易になったインターネット、特にソーシャルメディア(SNS)では起きがちな、悪しき意味でのマウンティングも似たようなもの。さらに困ったことに、SNS上でのマウンティングは実際に「強い力」を得ているわけでも無いのに、当人がそう思っただけで行われることも少なくない。
マウンティングはいわば力の鼓舞、(気に食わない)対象への攻撃に成り得るため、やりたい衝動に駆られるだろうし、やってしまえば本能的なすっきり感を得られるだろう。でもそれでオシマイ。それを繰り返してしまえば単なる野蛮人でしか無くなる。
どうせ力を使うのなら、自分自身のためだけでなく、他の人にも、社会全般にも、対象となる界隈の進歩発展のためにも、役立つようなものに使う方がいいのだろうな、と。直接なすっきり感は得られないかもしれないけど、色々と効用は巡り巡って、じきに色々な面でプラスとなって帰ってくるから。
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