衣食住や病気の時の最低限のセイフティネットとしての収入以上は、要は体験を買うために存在しているとも考えられる。その体験をVRで得られるようになった時、金銭の捉えられ方はどう変化するのだろうか?
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2018年5月10日
さりげなレベルで書かれているけど、実は結構奥深い、色々と考えさせられるお話。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利とか、人間の生存そのものの意義とか、社会文化生活の定義とか、色々な文化論などにも発展しそう。
要は人間が生物として生き続けるための要素を除くと、人は知的生命体として生存し続けるために色々と蓄財をし消費をしていくとの考えができる。その考えがあるからこそ、人は他の生物と異なり知的生命体となり得たわけで。
その部分をVRが大体補完したらどうなるのかな、というもの。例のスタートレックにおけるレプリケーターの話も似たようなものではあるし、様々なエンタメを一つの端末に集約したスマホの存在も部分的ではあるけど似たような考え方に至る。前者の場合は、それで出来ないものの価値がグンと跳ね上がるような感じだったし、後者の場合は...どうだろうか。スマホ内で出来るものにどんどん金銭が投入されてしまって集まっている感じではあるな。ただ、無料なり廉価でできることに慣れてしまって、物事への価値のつけかた、評価の仕方が雑になっている感はある(フリーミアムの悪解釈とか)。
VRでならばお金を積まねば出来なかったこと、積んでも出来ない事の少なからずを、比較的安価で疑似体験できる。疑似でも体験には違いなく、そしてその疑似で満足してしまう人も少なく無い。経験としても実体験には届かないけど、自分の脳内で「こういう体験をした」と満足できればそれでいい、という人も多いだろう。また、色々な事情でそれが出来ない人には、大いに世界が広がることになる。
麻薬などの中毒患者の妄想の世界、あるいは映画「マトリックス」における電脳社会のような、そんな世界での体験が日常生活でのメインとなれば、金銭の扱われ方は少なからぬ変化をもたらすに違いない。
ただ一方で、それって生きていると言えるのか否かという、根本的な問題もあったりする。「一炊の夢」を思い起こさせるのだな。
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