友達が息子の写真を撮る時に「寄りでなく、敢えて背景の看板や車など猥雑にも見える物も入れる。後で"その時代"が写ったものを見ると絶対面白いはずだから」と言って実践してるけど目から鱗だった。自分が愛でるためというより大人になって子供時代の写真を見る息子の視点に立って撮ってるのよね。
— ゆか (@yuka) 2018年6月12日
商品紹介などの物撮りをする時にはむしろ接写などで該当品を思いっきり寄り撮った方がいい場合が多いのだけど、外の造形とか人物の場合は、その対象自身だけでなく、周囲もその瞬間の当事者の一つとしてとらえ、まとめて撮った方がいいという話。これはぐうの音も出ないほどの正論。指摘されるまでは全然気が付かなかった、分からなかったという人も大いに違いない。まぁ、撮りたいものの表示面積を増やしたいってのは理解できるのだけど。
結局対象者だけでなくその場全体を残しておくべきだということなんだろうな、と。記録と記憶の違いにもどこか似ている感じがする。
昔のカメラは、フィルムを24枚とか36枚とか使い切らないと現像に出せなかった。旅行先で撮った写真を早く見たいがため、帰宅後、残り数枚を近所の街並みや家の中など適当に写して使い切った。
— なかけん (@naka_kane) 2017年2月15日
今になって貴重なのは、やはりそういった生活圏内の日常風景の方だ。観光地の風景は意外と変わらない。
四川留学中もそうだった。観光地で史跡などを写しまくり、寮に帰ってから、残りのフィルムを消費するために、生活圏内の市場や商店街、民家が並ぶ裏路地や、大学内の施設・人々などをこれまた適当に撮ったものだ。
— なかけん (@naka_kane) 2017年2月15日
この20年で中国の地方都市の様子は激変した。
あの時撮影した風景は、もうない。
似たような話として、フィルムカメラ全盛時代はこんなことが傾向としてあったとの事。結局、撮りたいものを取り終えてフィルムにまだ余数があった時、何も写していなくても現像料金はさほど変わりないし、ね。例えるならノートの余白が結構あるのに新しいノートに移行してしまうようなもの。
これらの話って先日触れた、ビデオテープに収録されていたテレビCMとか、勢い余って録画していた主目的の番組の後の別の番組とかとも同じような気がする。
デジカメとかHDDレコーダーだとその辺の感覚が無いから、後で有益判定されるような情報ってのも少なくなってくるんだろうなあ、と。デジカメならば普段から心がけて他愛も無いものを撮っておき、保全しておけばいいのだろうけど。
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