池内恵さんが「コラムニストとか、昔も今も、深くはものを考えないで書いているんだから」と書いてて、あー、確かにそうだわ。だから最近はコラム書く時に適当な事を書かないようにと心がけるようになったんだわ、と思ったコラムニストです。本職は映画監督のはずなんだけどな。
— 樫原辰郎 (@tatsurokashi) 2018年6月17日
若い時、エッセイとかコラムとかなら楽ちんでいくらでも書けるぜ!とか思ってたけど、実際に自分がコラムを書くようになったらけっこう大変で、これは何故かと考えたら、今は昔の人みたいに思いつきだけで書いちゃいけない時代になったからだという結論に達したのよ。
— 樫原辰郎 (@tatsurokashi) 2018年6月17日
コラムの件、エビデンス至上主義とか言いたいわけではなくて、要するに昔はラフな憶測で文章を書いて、それでコラムが成立したが今はそれをやるとどこで迷惑かけるかわからないので、積極的に気をつけるようにしている、という話です。
— 樫原辰郎 (@tatsurokashi) 2018年6月17日
雑誌とか週刊誌とかに掲載されている、連載の埋め草のような、読み物のような、雑談のような文章のコラムとかエッセイとか。時間つぶしにはぴったりで、表現を変えれば随筆とか戯言とすればいいのかなというもの。
ただあれって、活字として紙媒体に掲載されていて商業誌のコンテンツとして提供されているってことで、それだけで権威があり、正しいものという認識があった。それこそ「UFOが攻めて来るぞ」的なものですら。ましてや現状をそれっぽく語ったものであればなおさら。今でもどんな駄文な内容のものでも、活字化されて新聞や雑誌掲載のようなものであれば、信ぴょう性が高いと誤認しちゃうでしょ? それがもっとパワーを持っていた。
けれど今は(具体的にざくっと仕切り分けがされたわけでは無く、少しずつ、曖昧な感じで浸透した感じ)昔のようないい加減さでは通用しなくなっている。情報の質が大きく変化して、ウェブ上に最初から掲載され、あるいは転載され、不特定多数の目に触れるようになった。該当方面の専門家に読まれ、ツッコミが入るかもしれない。しかも一対一のツッコミでは無く、不特定多数からのツッコミとなり、しかもそのツッコミが公開されるので、さらに多方面からの問題提起がされる。いい加減なことを書いていると「商業誌で、確からしさがあるような形態の場で、そんないい加減なことを書いてよいのか」と非難を浴びる。
これってコラムやエッセイに限った話では無く、それと立ち位置が近い新聞の社説、さらには新聞そのものやテレビなどの従来型メディア全体にも言えること。かつては上から目線で一方的に情報を流して反論は許さない的な状態だったのが、同一高度の目線で、しかも自由に反論を受け、その反論の様子も不特定多数にさらされるようになった。さらにそれらの情報は蓄積され、容易に検証される。
昭和の時代の高名なコラムニストがテケトーな憶測で書いた文章が未だに社会に悪影響を与えているんじゃないかと思う。
— knt(黒猫亭) (@chronekotei) 2018年6月17日
過去に書かれたいい加減なコラムの内容が悪影響を与えている、あるいはそのスタイルを踏襲し続けている昔堅気のコラムニストがいまだに...のどちらなのかは読み取りがたいけど、どちらも正解な気がする。
僕の場合、30代で脚本家、30代の終わりで監督になり50になってから物書きがメインになったわけですが、もしももっと若い頃から物書きがメインだったとしたら、それはもう大量に無責任でポモ全開なコラム、エッセイを書いていたはずで、その辺色々と考えてしまうわけです。
— 樫原辰郎 (@tatsurokashi) 2018年6月17日
バブル崩壊からインターネット全盛期くらいに大量にコラムやエッセイで何かを書いていたら、もしかしたら原発や経済に関して正確な知識を得てちゃんとしたことを書こうという気が起こらなかったかもしれませんね。それまでの言動の積み重ねというのがあるので、それに縛られていたかもしれません。
— knt(黒猫亭) (@chronekotei) 2018年6月17日
まさにそれです。僕より早くから文筆業をしていた、僕と同世代の人たちの間でそういう事態が起きていると感じておりまして、なかなか辛いのです。
— 樫原辰郎 (@tatsurokashi) 2018年6月17日
二〇年前と今では情報の流通速度や物書きに求められるリテラシーが変わって来ているという事情があるので一概に責められないところもあるんですが、たとえば長期不況を通じて物書きが経済や社会に何を言ってきたのかという積み重ねに縛られるところって絶対ありますよね。
— knt(黒猫亭) (@chronekotei) 2018年6月17日
二〇年前だと大して勉強もせずにソボクに左翼しぐさをするだけでコラムやエッセイが書けたわけだから、昔書いたことに自分自身が縛られてしまうというのがあるだろうし、活動の長い物書きもけっこう辛いところがあると思う。知識のアップデートを身軽にできるスタンスが大事なんだなぁ。
— knt(黒猫亭) (@chronekotei) 2018年6月17日
パソ通やブログ時代からそういう傾向はあったけど、SNSは規模と加速度が爆発的だから、歴史上嘗てなく物書きにとっては厳しい時代になっている感じだよな。大多数の読者はろくに物を識らないという前提で書けたものが、今は専門家にすぐリーチしちゃうし。
— knt(黒猫亭) (@chronekotei) 2018年6月17日
専門家と一般社会の間に断絶があったから、ちょこっと気の利いた人間がテケトーな憶測で物が書けていたのに、その垣根がSNSで取っ払われてしまった今では迂闊に物を書けないし、今まで書いたことが無情に点検されてしまうという、かなり厳しい状況。
— knt(黒猫亭) (@chronekotei) 2018年6月17日
結局は指摘されているように、文章も含めた情報の性質が大きく変化したってのが大きい。今でもコラムやエッセイは自由に書ける。昔のようないい加減な、適当な内容だってかまわない。ただし掲載された場所や書き手の立ち位置により、相応の責任や情報の開示が求められる。適当なことを事実であるかのように語れば、それなりの対応が求められることになる。
環境が変わればそれに応じた対応が必要、出来なければひずみが生じ、パージされかねない状態になる。いわゆるOSのアップデートが必要って話と本質的には同じだし、それが出来ずに実情との齟齬を生じているのが、今の一部専門家・有識者の暴走的な実態の露呈とか、報道界隈の無茶ぶりなのかな、とも思ったりする。
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