貧困の苦しみと言うのは物理的なその瞬間の苦しみだけでなくそこから逃れる明日が見えない苦しみで、限られた一定期間がまんすればこの苦しみから逃れて戻る場所がある、という人間にはけして味わうことのできないものだと思う。実際に溺れている人と洗面器に顔をつけて息を止めてる人くらい違うかと。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2018年7月3日
一定期間どこかで貧困を「体験」したら戻る場所がある、というのは、一定期間したら金が入るのがわかってる、というのと同じ。その金が入ってこないし当ても無いのが貧困。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2018年7月3日
これは以前にも、自分自身で命を落としてしまう人の心境として説明をした気がする。貧困という話に限らず、マイナスの観点でとらえてしまう事象すべてにおいて言えること。たとえその時点、ちょっとした未来においても良くない話があるとしても、それを経た上での先に状況の改善があることが確証されている、分かっている、期待ができるからこそ、人は歩み続けることができる。
人が努力を続けられるのは、そのツライ努力が報われるという確証、想像ができるからこそ。毎日10キロマラソンをしても、絶対に健康にはプラスとならないし体重も減らない、精神的にも鍛えられないと分かっていたら、誰がそんなことをするものか、的な。いやマラソンというよりはうさぎ跳びとか人間ピラミッドの類の方がいいかな(やっても意味が無い、むしろネガティブな影響しか生じない)。
貧困においても、その時期においてお金周りがツラいよね、というだけなら、なんとか我慢できる。このツラい時期を乗り越えれば、楽になれるよという希望があるから。ところがその状況がずっと続くとなれば、苦しみは絶望的なまでに大きなものとなる。要は瞬発的なものか、継続するものかの違い。
この点と線の違いというのか、平面と立体の違いというのか、時系列的な上での一区切りか連続かという違いによる苦しさの違いってのは、将来への見通しのある無しで苦しさはまったく別物になるってのは、概念としてよく知っておいた方がいいお話。
人が自らを追い詰め、さらに死に至らせる行動に走りかねないのは、現状の状況にでは無く、将来にわたってそれが継続するという見通しがあるからってのは繰り返しになるけど以前話をしたし、若年層に向けて脱成長論を唱えたり未来を語らないような道筋を示すことの愚かさも容易に理解ができるのだな。「お前ら今後ずっとこのまま、むしろ苦しくなれ。俺様たちのために尽くせ、そのために奴隷のように働け。成長なんていらない」と高齢層のお偉い人達に繰り返しドヤられたら、若年層の誰がそういう人達の声に耳を傾けるのか。
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