当時は面食らったが、ネットで研究者が普通にしている(と私には見える)説明が「反論を許さないウエメセ」と受け取られることが多いのを知って、科学のイメージってマウンティングなのかと気づいた。
— 古田彩 Aya FURUTA (@ayafuruta) 2018年8月4日
これはどうやら、単純に「一方的になにかを教えられる」という会話形態に慣れてない人が少なからずいる、という問題のようです。
— 碌星らせん (@dddrill) 2018年8月5日
なので、そういう人には正しいことを言っても、それが「会話の流れ」に沿っていなければ受け入れてもらえない。
特にソーシャルメディア、中でもツイッターは文字制限があるってことと、文字での表現が形式ばったものになりがちで、フランクな説明では無いことも要因だとは思うのだけど。そして中には本当に反論を許さない独善的なドヤ顔的強要をしてくる、スットコな自称専門家もいるからタチが悪いのだけど。
自分のタイムラインに流れてくる専門家の解説と、それに投げられるリプライの数々を見ていると(、さらに当方は専門家の類では無いけど、自分の記事に向けられるリプライの中で、今回の話に該当するようなものを受ける経験を思い返すに)、指摘の通り、物事を教えられるというやり取りに不慣れな人が反発した結果のようにも見受けられる。要は慣れていないので単に怒られている、押し付けられているような判断をしてしまう。
......とここまで書いて気が付いたのだけど、そういう人って学校とか自宅で保護者とかに、一方的に何かを教えられるという経験はしてこなかったのだろうか。それともそういう経験をした上で反発心を覚え、聞いてられるかという意気込みで社会に接してしまうタチになったのだろうか。いずれにしても悲しいことではある。
そういう人に受け付けてもらう方法として「キャラ付け」という手法があったりするわけです。「のことならなんでも知ってる人」みたいな「キャラ付け」。
— 碌星らせん (@dddrill) 2018年8月5日
態度とか人の心とか人生とかに言及し始めた時点で、まぁ理性的な話し合いはできない状態になったと見るべきなのです。
— 碌星らせん (@dddrill) 2018年8月5日
けれど、いくら悲しみを覚えても、そういう人が少なからず存在するのは否定できない。対処法として指摘されている通り、あらかじめそういうものだというキャラ設定をしておくという手もあるのだけど、わざわざ「そういう人」のために自分のリソースをさらに投入して設定をして演じるというのも、果たしてコスパの点でどうなんだろうか、という疑問もある。
そして感情論やら相手側の認識次第でいかようにも判断できる軸で語り始められたら、本来求めていた理性的、専門的な話は出来ないものだと結論付けてもいいだろう。なにせ、こちらがどのような話をしても、気に食わなければ何でも反発できるという無敵のカードを持っているのだから、そういう人を相手にしても時間の無駄となるばかりではある。
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