先日受けた翻訳講座で、正しく翻訳しようとするあまり原文から離れるのを恐れすぎている、という文脈で「誰から怒られると思っているの?」的なことを先生が言っていた。本当にそうだと思う。ちょっとでも離れると激しく怒られた経験があるんだけど、私は今後この言葉を胸に翻訳人生を生きていきます...
— 松丸さとみ (•̀ᴗ•́)و (@sugarbeat_jp) 2018年8月22日
上手い人の訳は、原文を読んだあとに読んでみると、「あー、確かに原文にはこういう意味のことがこういうテイストで書かれているZE」以外の感想が出てこなくて、離れているとか離れていないとか、そういう尺度に目が行かなくなるという気はいたします。
— 葛葉(レオポン㌠のフレンズ) (@Cuznoha) 2018年8月23日
当方は翻訳のお仕事をしているわけでは無いのだけど、論文やら調査結果やら統計やらを精査して記事にまとめることは多々あるし、そのようなプロセスを経たはずの報道記事を目にした上で一次ソースをチェックして「なんじゃこりゃ、元々の主旨とまったく別物やん」的なツッコミをする機会も増えてきただけに、色々と考えさせられるお話。
語りやら文章ってのはたった一つの主旨しか持っていないってことはない。たくさんの意味が、語りたいことが、説明が含まれている。それらを単に表現されている言葉の一つ一つだけでなく、その連なり、文脈、さらには語っている・書かれている当事者や周辺環境まで把握して、奥底まで覗いて見極め、それを分かりやすく翻訳なり解説・まとめあげる必要がある。
読むんじゃなくて読み解くことが必要なんだな。恐らくは、機械翻訳の類ではもう少し技術が進歩しないとできないこと。
朗読とか舞台劇などでは、その場にいるかのように、その人に成り切った形での語りがよいものをつくりあげていく。翻訳にしても、まとめ的な精査記事にしても、そういう発想が欠かせない気がする。その観点では昨今の報道記事でよく問題視されている、取材先が語っていることはそういう話じゃないとか、記者や報道社の思惑を事象や取材先にかぶせて代弁させるなという問題は、今件のような話がまったく出来てないってのも一因にあるのではないかな、という気がするのだな。
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