国内デモの報道写真の数々を調べていて。そのデモでの訴える方法、訴えるための表現方法や内容が、デモが訴えている対象の「問題」とどれほどの違いがあるのかと、疑問に感じたのです。「暴力反対」と棍棒を振り回し、周囲を殴りつけながらデモ行進しているのと何ら変わりは無いように見えます。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2018年9月24日
イメージカットとして使うために国内のデモの様子をとらえた報道写真の数々を見て思った感想。学生闘争時代のは時代が違い過ぎるしそもそも暴力前提なので話は違うからと、ここ数年のであろうものに限って検索をしていたのだけど、精査していくうちに少しばかり吐き気を覚えたというのが本音。
お仕事などで写真やら文章やらを通してその作り手、映し出されたものの背景や心境、投影されているものを読み取ろうとするくせがついてしまっているので、憎悪感や悪意の類がむらむらと伝わって、ダークフォースにやられてしまった感じ。結局は海外の似たようなデモの写真を使うことで落ち着いた。
報道写真からの選択ということなので、それらが報道に使われたことは明らかではあるのだけど、その内容があまりにも日常からかけ離れた悪意に満ちている感が強い。話は古いけどショッカーの軍団とか悪徳な宗教団体が自分達の主張を掲げて歩いているような。
かの人達が訴えかけている、打倒すべき対象の糾弾しなきゃならない行為の指摘が正しいか否かは別として、その行為と、デモを成している人達の表現方法やその内容に、どれほどの違いがあるのか。まさに棍棒を振り回しながら暴力反対と叫んでいるのとさほど変わりない。
「相手はこれほどまでに卑劣だ(と自分達は認識している)」「相手のひどさを考えたらこれぐらいの表現は当然、そこまで酷いのだ」さらには「強い印象を与える仕方の方が注目を集める」などの意図で、あのようななりでデモをしているのだろう。けれど、静止画像、さらには映像を見るに、反社宗教団体の儀式と何ら変わらないおぞましさを覚えてしまう。悪意の、憎悪のかたまりが体現化したような、本能的に嫌悪せざるを得ないような存在にしか見えないのだな。
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