.@enusakucm さんの「「ドラゴンボール」を読んでない世代が先輩に勧められて読了した結果→「わかりみ」「アラ探しでは」など色々な声」https://t.co/Omq2bV5sKf をお気に入りにしました。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2018年10月16日
数日前からソーシャルメディア上で話題に上っていた話。多分に炎上商法的なところがあるので、直接対象記事を取り上げることはしないけど。世代間とか時間を超えて云々は別として、自分の趣味を相手に強要させるのは良い話では無いよなあ、形の違うピースを無理やりジグソーパズルに埋め込めようとするようなものだし、という感想。
で、ドラゴンボールハラスメント、略してドラハラ。これっていわゆるガンハラとかと同じ方向性で、さらにいえば上司が飲み会とかカラオケとかゴルフに強制的に誘うのを嫌う若者の問題、ジェネレーションギャップと同じ構図かな。社内運動会とか慰安旅行とか。それが当たり前の時代にはそれなりの意味があったし、多くの人が喜んで賛同していたけど、今では色々と社会が変わり環境も変化し人々の考えも違うものとなり、同じような受け入れられ方をするとは思えない。
それを理解するためには、現状の社会の認識をする、情報のアップデートをしておく必要がある。Windows95ではこれが常識なんだよ、といわれても、Windows10ではそんなの知らんということになるって感じ。ちょんまげ、帯刀で街中を歩いていたらアレだよね、というところ。
①展開が適当②世界観が弱い これは両方、週間連載漫画の特徴である。とにかく毎週読者を飽きさせないことに特化しているので、週間漫画誌が娯楽の中心だった世代にとっては当たり前の感覚だ。これを奇異に感じる92年生まれの彼が物心つく2000年代、少年ジャンプは部数を絶頂期から半減させている。 pic.twitter.com/pJdvhcT6TV
— ゾルゲ市蔵 (@zolge1) 2018年10月16日
つまり長年続いた「毎週のライブ感を楽しむ」という週間漫画誌の価値観がいつの間にか廃れ、むしろゲームにおける「作り込まれた世界観や物語の完成度を楽しむ」方により価値を見出す。それが彼の世代の主流となっている...という推理が一応成り立つのではないかと思うのだ。
— ゾルゲ市蔵 (@zolge1) 2018年10月16日
「アミバって先週まで本物のトキだったじゃんよ!」等に代表される週間漫画誌ならではのライブ感の楽しみは、それこそ週刊漫画誌創刊以来、半世紀ほど一般常識に近いものとしてあった。それがいつの間にか廃れていたらしいということが判明しただけでも彼のドラゴンボール評には価値があると思うのだ。
— ゾルゲ市蔵 (@zolge1) 2018年10月16日
「男気」「根性」「努力」「挫折からの復活」「反戦平和」あたり、かつてガキ向けコンテンツの定番スパイスだったが、今では軒並み商品価値を下げる意味しかなくなっている。「その場の意外性」「ライブ感」もいつの間にかそうなっていたことを今回のドラゴンボール評で教えてもらった気がする。
— ゾルゲ市蔵 (@zolge1) 2018年10月16日
で、ちょいと話は外れるかもしれないけど、ドラゴンボールをはじめとする同時期の漫画や雑誌に関わる分析で面白かった、というか同意できるものがあったので覚え書き。今でも少なからずはそうなんだけど、雑誌って取得者本人が楽しむものだけでなく、コミュニケーションツール、情報の共有のためのアイテムだったんだよね。同じものを経験していれば、それに関するやり取りができる。タクシーの運転手との何気ない会話では、双方が知っている話でないとキャッチボールが出来ないってところ。
指摘はされてないけど、雑誌とゲームの間に、恐らくはテレビが入っていたと思う。全滅したわけじゃないけど、コミュニケーションツールは雑誌からテレビ、そしてゲームへのとシフトしていく。んー、シフトというか多様化して、メインが変わっていくというところかな。今でも雑誌やテレビの内容でやり取りする事って多分にあるからね。
そして気が付くことといえば、雑誌よりテレビ、テレビよりゲームの方が、ライブ感を得るための時間は短くて済む。情報の質が加速化しているってのは、こんな観点でも理解できたりするのだな。
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