自分で書いて、自分で弄るなら、自分の作品だ。でも、他人の指摘があって、それを受け容れる以外の選択肢がない、となると、それは果たして自分の作品か?という疑問が首をもたげてきてしまう。
— ろくせいらせん (@dddrill) 2018年10月26日
「面白さ」を他人に依存することに、根源的な恐怖がある。
— ろくせいらせん (@dddrill) 2018年10月26日
自分一人ですべてを成し遂げようとすると独りよがりとなるし行き詰まりを覚えることも多々あるし、間違いに気が付かずに赤っ恥をかいたり時間を無駄にすることもある。他方、他人の指摘(校正・校閲なども含む)を受け入れてしまうと、自分がやりたかったこと、成し遂げたかったこと、表現したかったことが軌道修正されてしまい、あるいは否定されてしまい、その結果として仕上がったものが自分自身のものかどうか、首を傾げてしまうのは否定できない。
まぁ、自分自身という概念ですら、細胞単位で考えると常に新陳代謝をしており、数か月で入れ替わるという話もあるぐらいだから、「自分のもの」という概念そのものも随分と曖昧になるのだけど。
結局は何を目標、目指しているのか、何を成し遂げたいのか、何が欲しいのかという設定と、どこまで自分以外の存在の介入を許容するかのバランスはケースバイケースであり、その調整こそが自己満足もできるし他からも受け入れられるものとなるのか否かを決める、重要な要素なのだろう。まったくの唯我独尊で自分も他人も大いに満足するものとなるものもあれば、他人の意見指摘を受けまくっても似たような結果になることもある。
ぼっちはキモい、友達がいないのはよくない、性格が暗いのはダメ、コミュ障は情けないといった、世間の単純な価値観がなくなれば、楽になる人は少なくないのではと思っている。仕事は選ぶかもしれないが、個人が感じる人生の充実度とはあまり関係がない。私は根暗で人見知りで孤独だが、リア充だ。
— 葛葉 (@Cuznoha) 2018年10月26日
他人の意見で明らかに自分の間違いであることを確認できたら、それは素直に直した方が良い。それは自分の作品か否かという話では無く、他人の意見を取り入れた自分自身の判断による、自分の作品の改善方法に他ならないから。
他方、他人の基準軸で自分の価値観を否定されたり修正を求められても、それに従う義務はまったく無い。その人に迷惑をかけているとか法に抵触するというのなら話は別だけどね。世間一般からはネガティブな感想をいただくようなものであっても、本人が満足をして、充実をしているのなら、それはそれでありなのではないかなという感はある。世間の単純な価値観が無くなるのはムリだから、自分自身の判断基準として世間の単純な価値観をある程度は無視する考えを持つのが楽かもしれない。
自分は自分、人は人。別にいいじゃん、これが自分なんだから。
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