>違うでしょ。ジャーナリズムの判断基準は普遍的正義でしょ
— しわすみ (@s_w_s_m) 2018年11月10日
それもちげえよ。ジャーナリズムがまず判断すべきは真贋であって善悪じゃない。ただの私企業の従業員であるジャーナリストに善悪の審判をする資格があるわけなかろう。 https://t.co/dFxjqH9Egz
ジャーナリズムは物事や事象、事実を正確に伝えることだ。そこに私情が入ってはならない。善悪の判断をするのは読者だ。書き手ではない。
— 福田 誠(まっくす) (@mac_fukuda) 2018年11月10日
ジャーナリズムは伝える側が好き勝手に自分の判断や思惑に従って切り貼りをしたり歪曲をしたり自分の正義の名の下に振り回す剣として使うものでは無く、まずは本物であるか否か。善悪云々となると、それを判断する基準が必要となり、その基準そのものが正しいか否かが大前提となるからね。この品物のサイズは20センチですといわれても、それを測るために使った物差しが間違ってたら何の意味も無いってところ。
さらにジャーナリズムを自称する記者の人達は単なる私企業の従業員だったり自営業者だったりする。公的な、第三者の公正な判断による承認を得たわけでは無く、資格試験をパスした資格保有者でも無く、何の担保も無い。
無論人間がやることだから、多少の揺らぎはあるだろう。だけれど現状が、その誤差範囲の領域内にあるか否かを推し量ると、とてもじゃないけど首を縦に振れられるような状態ではない。
ジャーナリズムはスピーカーたれ。音は正確に拡声しろ、変な音を混ぜたり削ったりするな。特定の方面からの音のみを拾うことなく、機能に従ってすべての音を拾え。なのですな。それがまず必要不可欠な、最優先の機能。翻訳機能を実装したり、バックグラウンドミュージックを追加するというものですら、副次的な機能でしかない。
その基本的な最優先機能ですら果たせていないジャーナリズムを叫ぶ報道界隈に、存在意義はどれほどあるのだろうか。
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