あるものを入れて、あるものを出す力。表現を考え出して、ここではこれが適確だと確信を持って提示できる力。結果として、シンプルな置き換えになっている場合も勿論あるけれど、頭の中では、発案して、検討して、捨てたり切ったり貼ったりして、それから出している。決して、単純な置き換えではない。
— 葛葉 (@Cuznoha) 2018年11月18日
今件は翻訳でのお話ではあるのだけど、それに限らず創作系のものは得てして、出来上がった成果物の見た目、分量と、それが生成されるまでに必要とされるリソースとの間で、大きな格差が生じることがある。だからぱっと見だけでは、評価も大したものでは無くなるし、誰にでもすぐに出来ると思い込んでしまう。
ひとつの結果を出すまで、紆余曲折が繰り返され、試行錯誤が行われ、数々の失敗の上で、ようやく導き出されたものかもしれない。さらにそれを成すために必要な経験の数々は年単位のものであることもある。以前記事にした、漫画家が数分で仕上げるカットには、そこに至るまでに数十年の経験があってからだこそという話とか、鍵屋さんが実作業は数分に過ぎないけど、それができるようになるまでの修行と経験の積み重ねがあってからこそのものであるっていうのと同じかな。
翻訳力という言葉には、あるものを別のものに変換する能力という含意があるように感じられる。思うに、(ごく狭い意味の)翻訳力なんてものはない。(ごく狭い意味の)翻訳の能力には、読解力と表現力しかない。並んでいる言葉を変換する作業だと考えていると、早晩限界がくる。確実に。
— 葛葉 (@Cuznoha) 2018年11月18日
見た目だけ、表面ヅラでの結果を基に、やってしまおうと考えると、実のところはほとんどできなかったり、出来たように見えてもそれを続けることは不可能だったりする。その裏にある、支えているものを知らないから。
グラフの生成とかその解説とかも同じだったりするんだよね。「数字をエクセルにぶち込むだけじゃん」と何度ののしられたことか。
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