技術の進化とともに変わる世の中を否定する新聞社に存在意義はあるのか

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主体的に深く学ぶことに何の異論もない。ただ、多くの学校で情報通信技術(ICT)とセットにされ、タブレットでインターネットを検索し、プレゼン資料を作る授業が、自ら課題を発見し、問題を解決する学習だといわれると疑問符が浮かぶ。

続く文章のところで「半世紀近く前、私が中学生だった頃は」と出ている時点で、「昔はよかった、今は自分が付いていけないからダメだ」という、回顧論をよじらせて現状と未来を否定する、ロートリズムに走っているのが分かる。これを日経新聞という経済を中心に伝える新聞が書いているのだから頭が痛くなる。それほどまでに技術の進みを否定するのなら、横穴洞窟に住んで枝をぐりぐり擦りまわして火をつけて生活してはどうなのか。紙など使わず石板で新聞を作ってみては。


自分の知っていてた時代を懐かしむのは構わない。ネタにするのもいいだろう。古きを尋ねて新しきを知るという言葉もある。けれど、そこからさらにこじれて、今はダメだと否定してしまうのは、前に歩む知的生命体の本質からは外れたものとして認識せざるを得ない。恐らくは指摘されている通り、自分のアドバンテージが崩れているので、元に戻したいという本心が軸にあるのだろう。そういう人達が正論ぶって文化を自称する新聞でアッピールをするのは、背筋に寒気すら覚える。あなた方のような人たちが足を引っ張っているから、前に進めなくなるのだよ、と。

機械や技術が冷たい、人の温かみを感じない、人間性が無い。それは詭弁でしかない。なぜなら機械や技術を創っているのもまた人間だから。人が創ったものに人間性が無いというのなら、創作物すべてにそれが当てはまり、人間そのものしか人間性が無いということになる。手料理とレトルト食品や中食との間にどれほどの違いがあるのか、というのと同じ問題なんだよね。

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このページは、不破雷蔵が2018年11月20日 07:05に書いた記事です。

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