「自分の人生に必要がなかったから」と教育や他人の生き方に口出しする人が少なからずいるらしいんだけど、それはお前の人生で偶然必要なかっただけで、他人にも必ずあてはまると思うなよ。「おれ視力良いから世の中にメガネ必要ないだろ」って言われても困るんだよ、視力弱い人にはメガネは必要なの。
— マルキン (@ma_ru_kin) 2018年11月25日
「授業で体育は必要ない」という話題も出てるようだけど、例えば運動が全般的に不得意だけど、卓球させたらやたら上手いとか、そういう子は実際にいる。でも運動が苦手(だと思い込んでいる)な子はそもそも自発的に運動をしない。そういう子に機会を作って経験させられるのが授業のメリットだろうに。
— マルキン (@ma_ru_kin) 2018年11月25日
もしかして何かの種目で世界を獲れる才能を持ってるかもしれん、サッカーも野球も走るのも嫌いな子が、実は水泳でものすごい選手になる可能性だってある。その子が水泳に出会う機会が体育の授業かもしれないわけで、その可能性を潰していい権利なんて誰も持ってないだろう。体育に限ったことじゃない。
— マルキン (@ma_ru_kin) 2018年11月25日
アカシックレコードへのアクセス権があるわけじゃないのだから常に最適な選択肢を選べることなどありえず、また異世界転生物じゃないから自分のステータスをゲームのように観ることなどできず、だからこそ色々なものに手を出して自分の可能性をチェックしていく必要がある。まぁ、それが面倒くさいのなら世の中の流れに逆らわずに流されていくのも自由ではあるのだけど。
で、チャレンジする、ゲームならチェックのためのサイコロを振るためには、色々な可能性が秘められている、容易に成長ができる子供の時代が一番。学校ってのはそのための存在ではある。結果のみを見て、あれは要らなかったというのは、よく言う後出しじゃんけんレベルの話でしかない。もちろん、教える側の能力とか姿勢の問題も大きいけれどね。いくら機会が与えられても、教える側がスットコだったら芽が出るどころか腐らせてしまいかねない。
授業って「お試し」なんだよ、キッザニアみたいな。自分の人生にとって役に立たなかった科目が、他人には楽しくて仕方のない、やってて良かったと思える科目かもしれない。そういった想像力すら働かない人には、子供にとって何が必要か不要かなんてことは口にして欲しくない。
— マルキン (@ma_ru_kin) 2018年11月25日
授業はお試しとかキッザニアみたいなもの、とかベストマッチなフレーズ過ぎて脳内が総立ちで大喝采時代到来。そうなんだよね、学校の授業はチェックのためのサイコロ振りの機会でもある。無論、上手くいかない人もいるだろうけどさ。多くの人にたくさんのサイコロ振りをしてもらう、お試しチャレンジをしてもらうための機会提供ってのも、学校の役割ではあるのだな。
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