「異世界転生物」の人気の一つは、現世界からやってきた主人公が異世界の常識を知るはずも無いので、現地の人に色々と教えてもらう、学ぶという流れになる、その過程がそのまま読者への手引きにもつながるってわけですね。世界観の説明がそのまま物語になる。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2018年11月25日
だから読者が知っているであろうゲーム的インターフェイスなどは主人公も「なんだゲームと同じじゃないか」として既知のものと認識している次第。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2018年11月25日
先日の【ファンタジーの文脈とかお約束が分からない】で触れた話の再整理。自分でもかなりすっきりとした解釈で、色々と使い道がありそうな感があったので。
物語ってのは時としてそこで語られている背景を知っていることが前提となる場合がある...っていうかその方が多い。イントロダクションが用意されていたりするのもそれが原因。ファンタジー世界のお約束が分からなければ、話の中で語られている常識が理解できないので、その世界に没頭することは難しい。極端な話、英語を知らなければ英語で書かれている物語は理解できない。そういうレベル。
で、「異世界転生もの」が人気なのは、主人公が読み手と同じポジションにあって、異世界に転生して現状が分からず右往左往しているところに、神様とか異世界の人達があれこれ教えてくれたり、異世界で四苦八苦しながら常識やらルールやらを学んでいくチュートリアル部分をも、物語そのものとして組み込んでいるからではないかな、というのがある。普通の話でこれをやると違和感を覚えるけど、そういう設定ってことならば何の不思議なところもなく読めてしまう。世界観の説明自身がそのまま物語となっていくという、非常に都合の良い構造だったりするわけだ。
一方で非常に便利なゲーム的操作性の部分、例えばステータスがゲーム画面のように表示されたり、無限の容量を持ち自動整理も行われる収納庫を持っていたりとか、レベルとかクラスといった、ゲーム的インターフェイスは読者層もすでに知っているだろうということで、当たり前の、すぐに理解できるものとして設定されているし、主人公もそれで安心をしてしまう。
誰に見せるのかという観点も併せ、「異世界転生もの」はよくできてるなあ、という気がする。先に記事にした「輪廻転生論の現代版、宗教のようなもの」という解釈も合わせて考えると、モノスゴイ文化なのかもしれない。
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