「もうお金じゃないんだこれからは心の豊かさなんだ」みたいな欺瞞を今年は徹底的にぶち壊したいですね。なめられてるから増税されるんだよ。
— tadataru (@tadataru) 2019年1月6日
増税云々はともかくとして。正月企画的なお話で、モノよりも体験とか、お金よりも心の豊かさとかいう流れが主流になっている「という社会の風潮だよとのお話」がちらほら目に留まる。なんだか偉そうな人がそれっぽく語っていたり、社会的権威がありそうな場所での論説だったりすると、世の中全体としてそういうものなのかなあ、という刷り込みをされてしまう。それが繰り返されると、いつの間にか自分自身もそういう考えであるというロジックになっている。洗脳やら教育やら印象操作的なもの。
何度も繰り返しているけれど、お金というのは物品やサービスの評価価値を、時系列や距離を取り払って、つまりは次元を無視してやり取りできる、人類が開発したステキナイスな道具、概念。心の豊かさとか体験とかってのも、実のところその大勢はお金で確保できる。
他方、心の豊かさとか体験ってのは、具体的な指標化は不可能なので、何とでも言いくるめることが可能となる。感情論と似たようなものだ。新興宗教がぼろ儲けできる(ケースがある)のは、そのロジックを巧みに使っているから。二束三文の壺を数百万円で売りつける、みたいな。
このような話をすると決まって......というと例のファクトチェックな界隈が大騒ぎするので、えてして、「お金で買えないものもある」という反論を声高にいただく。でもその反論ですら反論になっていない。「ものもある」ってことは、大抵のものは買えてしまうことを意味するからだ。何故ごく少数の例外のために、多数の合致する事例を捨てねばならないのか。それってまさに詭弁だよね、というお答えをするしかないのだよね。
そして人は全部の事象を体験することはかなわない。ならば手に入るものをとりあえず手に入れようとするのは道理ではないかな。「お金で買えないものもある」ってのは、お金で買えるものを自由に買えるようになって、初めて主張できる言葉である気がする。さらにそういう状況で語っても「それはあなたのような状況の場合だよね」で終わってしまうのだな。
お金がないと、お金で買えないものを得られて、お金で買えるものを得られない。
お金を持つと、お金で買えないものを得られて、お金で買えるものも得られる。