テロール教授の怪しい授業 / 原作 カルロ・ゼン 漫画 石田点 - モーニング公式サイト - モアイ https://t.co/f8cuvj73Js
— こたちゃん@胃袋は大洗 (@kotatsu_neko) 2019年1月13日
攻めてるなぁ。しかしオウムの件を知ってる世代だからそこ、周りの決して頭悪いわけではない人々がコロッとインチキに嵌る様子を見ているからこそ、これ読んで欲しい。
カルトVS貴方の場合、基本的に論争になる時点で貴方は戦略的に敗北しています(´・ω・`)
— 同志カルロ・ゼン@カフェイン (@sonzaix) 2019年1月13日
同じ舞台に上がる時点でつらい。
なにせ十中八九、貴方は初陣ないし、耳学問でしょう。
対するカルトは、百戦錬磨。数多の識者、専門家、被害者(+その家族)からの批判に対抗し、実に経験豊富です。つらい。
最初に紹介されている本の中でも多分に語られているけど、これは詭弁を成すものの常とう手段であり、一般の人がダマされやすい手法でもある。もの凄い雑な例えだけど、同じ土俵の上に上がる時点で、ちゃんと相撲のルールにのっとって戦うつもりでいる自分が、拳銃やらパワードスーツやらを実装して相撲のルールなどお構いなしの人にかなうはずはないのである。勝敗の基準からして全然違うのだな。
往々にして、専門家すら批判するつもりが『利用』されることがありませう......(´・ω・`)
— 同志カルロ・ゼン@カフェイン (@sonzaix) 2019年1月13日
Q:どうやって専門家を利用するのですか?
A:社会的信用があり、取り込めない専門家に対しては『スーパー専門家A先生と、専門的な知見に関する学術討論会を××大学で行いました!』等々、宣伝材料に。
Q:批判されているんですよね?
— 同志カルロ・ゼン@カフェイン (@sonzaix) 2019年1月13日
A:往々にして、専門家は『学術的に正しい批判』を行いがちです。つまるところ、『議論している態をでっち上げればいいや』というスタンスのカルト側にとっては『意見交換に見えればそれでOK』だったりする......(´・ω・`) https://t.co/Y0QVFHk91m
勿論、専門家が批判しないといけないのは間違いない。
— 同志カルロ・ゼン@カフェイン (@sonzaix) 2019年1月13日
ただ、『大学等を舞台に、まるで対等な議論の態』で話をしちゃうと相手方の得点にされてしまう感じですかね......(´・ω・`)
あと、両論併記の罠とかにも注意ですよね......(´・ω・`)
— 同志カルロ・ゼン@カフェイン (@sonzaix) 2019年1月13日
『我々は中立だから、どっちも記載しますね』って感じで、『専門家の意見』と『自称専門家の意見』があたかも『対等なもの』としてメディアで扱われるのもちょっと怖い。
この類の手法は「目的がそもそも違う」「表現のあれこれを編集して活用するのは朝飯前」って感じで、昔から使われている手法に過ぎない。マニュアルのようなものがあるのかもしれないし、無くても本能的に分かってしまう類のもの。似たような事はマスメディア自身や専門家、活動家などが日常茶飯事的にやっているから、その共通性に気が付いて自分も悪用しちゃえと考えている人も多いのだろう。例の、週刊スピリッツでの「美味しんぼ」の鼻血事案の際に、権威ある有識者・知識人と、スットコな活動家の意見を同列に並べて賛否両論として掲載誌、後者の格式を底上げした事例が非常に良い例だったりする。
あの類の話を見るに、ヤバいやつらには近寄らないのが一番。姿かたちを見せたら、それは危険信号であると認識すると面倒がない。見方を変えると、そういう類の人物を会合とかシンポジウムに呼ぶのは、それだけで集まり自身の信ぴょう性を損なってしまうものに他ならないのだな。先日もどこぞの著作権関連でそういう事例があったけどね。
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