今の日本に足りないものは「明日は今日より良くなる」という漠然とした楽観だと思う。バブル後の世代にはピンと来ないかもしれないが、高度成長とバブルを経験した人なら皮膚感覚として理解できると思う。
— 大貫剛 (@ohnuki_tsuyoshi) 2019年1月31日
10年後には今より給料が増え、家が広くなり、育った子供に多くの金をかけられる。それ自体は当たり前のことで、その倍率を増やすのが働くモチベーションだった。この感覚が失われて四半世紀が経とうとしている。
— 大貫剛 (@ohnuki_tsuyoshi) 2019年1月31日
ちょいと前に物議をかもした「脱成長論」もそうだけど、種を蒔いてもその収穫を得られる機会が無い人や、すでに十分な果実を得ている人達による、「今後はもっと世の中は悪くなる」「成長や躍進、改善など望めないし望むべきではない」というジャンプしたい人の足元を押さえつけるような動きが、多々見受けられる。
人にとっては成長したい、もっと欲しい、何かをしたいという背伸びの思惑こそが必要不可欠なのであり、それが無ければ生物としては存在意義が無いと断じられても仕方が無い。そしてそれを押さえつけようとしているのが、今の数量的に力を持っている高齢層(など)の多分だったりする。
自殺周りの話でも言及したけど、人が絶望を抱き歩みを止めるのは、今日の辛さがあるからじゃない。明日も明後日もずっと、その辛さが続くかもしれないという見通しがあるからに他ならない。今日は辛くても明日がそれより少しでも先に進めるという希望があれば、今日の辛さは何とかなる。それを吹き飛ばしてしまったのが、数十年に渡るデフレと、人口構成比率における高齢層の拡大化。特にデフレはそのまま直で、将来の膨らみを押さえつけるようなものですらあるし。
今では高齢層を中心に
・日本はもう成長しない
・経済は縮小するばかり
・科学の進歩も他国に追い越されるだけ
・市場も縮小し人口も減っていく
・科学や教育など未来に投資するのは損だ
・種もみをまくのは勿体ないから俺たちに食わせろ
の連呼なのが実情。だからこそ先の「脱成長論」には大いに反発した次第。
86.8%が「国際的競争力アップのために科学技術の発展は欠かせない」 https://t.co/ZiBs9OuHCS 2010年のお話
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年1月31日
「科学万能、"猛"進主義でないのなら、あまり科学技術に力を入れなくても良いではないか」「世界で一番で無くても、他国に任せれば良いのでは」「数年くらい研究を中断しても問題ないのでは?」との意見を持つ人もいることは否めない。
親に叱られる子供イメージ子供が自ら望んでピアノや野球の練習に励む様子を想像して欲しいが、そのような場で子供に対して「どのみちあなたは出来っこないのだから、あまり練習をしなくてもいいよ」「どのみちあの子が大会候補に選ばれるのだから、ピアノ塾もお金も無駄になるので、通う回数を半分にしていいね」「お前はいくら練習したところでプロ野球選手、それどころか児童会チームのレギュラーにもなれやしない」と親が高圧的にさとしたら、子供はどのように想うだろうか。やる気を無くし、機会を失い、もしかしたら芽生え、大きく成長したかもしれない芽をつぶしてしまうだろう。大きく成長はしなくとも、果実を実らせるくらいに成長し得たかもしれない「可能性」を無きものにしてしまう(すぐに結果が出ないもの、形が目の前に見えないものは軽視する、という風潮は昨今のメディアが推し進めているものかもしれない。
などという話を例の公開仕分け魔女裁判の時に記事にしたけど、あれがある意味でもっとも愚挙を体現化したものだったのだろうなあ、と思わずにはいられない。
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