自発的な好意と強要される行為と

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まずは気付いてもらわなければ判断そのものが出来やしない、声を挙げて存在感をアピールして、さらにはこういう手法があることを気付かせてもらうことに何の問題があるのか。それは確かにその通りであるのだけど、方法論がまずいよなあ、という手法が濫用されている事例は、ここ最近よく見受けられるようになった。方法のハードルが低くなっているからなのか、スットコなコンサルやら情報商材が暗躍しているのか、実情は多様な状況なのだろうけど。

コンテンツへの敬愛というか評価支援の類もそう。好意を持った対象に色々と手立てを尽くして、支えのほんの一滴にでもなればという気持ちは大切だし、その滴が集まれば海をも作り出せる。

けれどネット通販じゃなくて本屋で予約しないとだめ、電子媒体で無く紙媒体を買え、しかも今すぐに、という話が乱舞してくると、かえって気持ちが醒めてしまう。これって熱狂的なファンで無ければファンにあらずという上から目線を、作り手なりファン自身が成しているという構図になっていないだろうか。

ツイッターで10万RTされないと連載終了とか、再生回数が10万回超えないとグループ解散とか。ネタとしては面白いかもしれないけど、ファンに強要するようなものじゃないかと思う。第一それって舞台裏の裏事情みたいなもので、それをアピールに使うってのは、コンテンツとして終わって無いか。「なりふり構ってらんないのよ」というミサトさんの声が聞こえてきそうだけど、なりふりを構ってられない手段には、相応の反動とかペナルティが生じるわけで。


コンテンツのビジネスとしては現状は略奪農法的なところがあり、それが一番楽で確実だという認識が浸透しつつあるのかもしれない。その方が目の前の利益を得るのには一番だけど、後で手が付けれないような状況になる。でもそんなの知ったこっちゃないし、そもそもそういうレベルの考えが出来る人ならその方法はやってないよね、という感じ。いわゆる「脱成長論」と筋を同じくするところもあるのだろうなあ、というのが個人的感想。

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このページは、不破雷蔵が2019年2月24日 07:18に書いた記事です。

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