人の怒りとか絶望とかの感情、事態の大きさとは必ずしも一致しておらず、カップ焼きそばを流しにダバーッ、卵のパックを床にベチャーッ、ですごい衝撃を受けるし、子供がチラシの裏に描いた絵をゴミとして捨てられただけでこの世のすべてを滅ぼす決意したりするので、感情と行動を直結させるのよくない
— 銅大 (@bakagane) 2019年3月25日
特に他者を罰したいという感情は、感情のおもむくままにすると「え? それはそこまでの罰を受けねばならぬ罪?」みたいなことになるので、慎重に。
— 銅大 (@bakagane) 2019年3月25日
自分の感情を否定するのはストレスの元ですが、感情の奴隷となって行動するのもまたリスクが高い。
当方が感情論のみで押し立てる議論を忌み嫌う理由もこれだったりする。人の感情ってのは多様な要素で膨らんだり縮んだりするので、単純に原因となる実態や引き金となった事案とは必ずしも一致しない。チョコボールの1つをつまみ食いしただけでも烈火のごとく怒って三日三晩キレたままになるってこともあれば、ゴディバのチョコレートをひと箱食べてしまっても「めっ」と言われて小突かれるだけで済むこともある。
感情の発露の背景は他人から分かるはずもなく、本人にも変わらないこともあるぐらい。それしてそれらは多分に理知的では無く、文化的では無く、大人としての振る舞いって観点でも筋を違えている。
感情そのものは否定しないし、ある程度のぶれの要因となることも仕方が無いものではあるけど。それをやりたい放題にして放置しておくと、個人の好き勝手な、感情的な判断がすべて容認されてしまうことになる。「お前は気に食わないから死刑」ってのが正当化されるようなもの。
感情をいだくことと、それを実反応に反映されることとは別であることを理解し、実体化できるってのが、大人としてのあるべき姿ではないかな、と。無論指摘の通り、感情をまったく押しとどめてしまうとストレスが蓄積されて危険な状態になってしまうので注意が必要だけどね。
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