知識が増えていくと、その量がある閾値を超えた瞬間、組み合わせのパターンが爆発して、あれもできる、これもできると、能動的にアイデアを出せるようになるということがわかってから、
— mewlist (@mewlist) 2019年3月26日
なんの役に立つかわからない段階こそ、いつどこで役に立つんだろうというワクワクを感じて勉強するようになった
定期的に話題に上る「自分が必要無いと判断した勉強はする必要が無い」ってのにかかわる問題。これは実感することで容易に理解できる話なのだけど、手持ちの札が増えてくると、単純に札の枚数以上の選択肢を得ることが出来るようになる。1枚しか無ければ出すか出さないかのみだけど、2枚あればゼロ・1×2・2で4通り、3枚あればゼロ以外に1枚ずつが3通りで2枚を出すのが3通り、3枚まとめて出すってことで8通り的な(順番を考慮しなければ)。
発想とか創作の類は少なからずが、既存の知識の紐づけで想起されていく。あんなことがあったはずだから、これとこれをつなげればできるはずだってのは、手持ちの知識や情報が無ければ連想できない。知識がないものはそもそも思いつくことすらできないのだから。手ごまが無ければ戦略を思いつけるはずも無し。
ただ、指摘されている閾値とか、知識の結びつけには経験やらテクニックやら能力やらが必要になる。いくらたくさんのおもちゃを箱に納めていたとしても、その箱に何が入っているのかを掌握していなければ、任意のものを取り出す事はできないし、取り出したおもちゃ同士で新しいものを作るってこともできない。いやその前に、箱の中に考えているようなおもちゃが入っているということそのものを知らないから、想起自身ができない。
要は知識を詰め込むのは必要、というか前提条件。その上で、それを有効に引き出して組み合せるようなテクニックの習得、方法論の会得が必要なのだな。
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