「身を切る改革」このフレーズが出てきたら、候補から外してOK。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月19日
大抵庶民の身を切る改革ですからね
— Naoki35 (@xNaoki35x) 2019年4月19日
当方が住まう練馬区でも本日区議会議員選挙があるため、昨日まで選挙カーが夜の8時までわらわらやってきては色々なお騒がせをしていた。色々な語りを聞くに、その内容や候補者名を逐次検索して色々と納得したり、政党名を出さない候補を確認すると「政党名を出すとマイナスと判断した上での演説なのね」と分かってしまったり、実に興味深い。
ポストにもそれ関係の文面がいくつか投函されていたけど、書かれていることはみんな同じで、なぜ共同でやったことをさも自分達だけで成し遂げたかのように書くのだとか、それを言うのならまずは自分達のその方面でのやらかしの精算が必要だよね、とか、それは練馬区とは関係無いだろうにゃー、とか。
で、演説の中でも特に耳についたのが、「身を切る改革」なるもの。それを連呼していたのだけど、結局誰が身を切るのかは明らかにしていなかった。誰が切るねん。指摘されている通り、大抵は有権者自身の身を切らされる改革になってしまうのがオチ。
まぁ、候補者というか行政側の身を切るという意味があるのかもしれない。けれど議員の報酬を減らしたところで世の中がよくなるわけでもなく、減らしたとしても些細な額にしかならないし、それを行政の他の方面に割り当てるとしてもどれほどの意味があるのか。第一、行政のかじ取りをする人たちの報酬対価を減らしたら、良い人材は集まらないし、仕事の内容も期待できないよね。企業がまともな対価を出さずに人材不足云々と嘆くのと同じ構図。
確かに節約とか身を切るってフレーズは、ぱっと耳にした限りではカッコイイし良いことをしているようにも思える。その場限りでのインプレッションでは結構な効果があるだろう。けれど実際にはむしろマイナスの効果が生じる可能性の方が高い。行政方面の予算が減らされれば、その分行政サービスそのものの削減が生じることになる。もっと安いところに頼めば、という事になれば、その分質の低下が案じられる。それこそ正規から非正規の流れなんだけど、それを求めているってことになるよね。
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