もしかして今のマスコミ界隈って、個人の責任のあるなしや罪深さの采配を自分達が行えると思っているのかしら。こいつは有罪だから何度でも騒いで世論を誘導させよう、この人は無罪なのでだまっていよう。その采配はマスコミの好き嫌いや都合で左右される。何という恐怖政治。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月11日
明文化された厳格なルールが無いと、判断する側の思惑で好き勝手な断罪が可能となってしまう。法律が多分に明文化する必要があるってのはまさにそれが理由。不文律にしておかないと世の中ががちがちになってしまうって面もあるけど、不文律で思惑ファーストにすると、独善的な悪弊が支配してしまうことになる。
で、今のマスコミ界隈ってまさにそのような状態に陥っているのではというのが正直な感想。自分達の思惑を絶対正義と断じ、その思惑に当てはまらないもの、気に食わないもの、敵対すると自身で判断しているものを反復して大声で騒いで世論を誘導させ、叩かせる空気を作る。そうでないものには黙っていたりさり気に流して世間の関心をスルーさせる。その采配はマスコミの好き嫌いや都合で左右していく。
あるいは逆で、気に食わない対象にはとことん細かいことも繰り返し騒いで問題視させ、気付きを与えるとか世間の注目感心に合わせてと大義名分をふりかざすけど、同じようなことを気に食わない対象以外がやっても、おだんまり。行動指針というか選択基準は結局事象そのものでは無く、対象で決めるんだね、的な。
これって独裁政治とか恐怖政治とどれほどの違いがあるのだろう。
この構図、どこかで見たと思ったら、悪辣な考えを持つ芸能人とか有名アカウントが、フォロワーをけしかけて自分の気に食わないアカウントを凍結させたり引退に追いやるのと同じだったりするのだよね。教祖と信者の関係と表現すれば分かり易いかもしれない。
昔からそうだったような気が。https://t.co/cQfY03p7Bg
— 三河人@いくじなし (@mikawa_1964) 2019年4月11日
メディアの阪神大震災のときの朝鮮人リンチ事件や神戸屋倒産事件とかの態度を見てると、本質は野次馬やかわら版屋だとは思います。
— ちょこらーたはジムキャノンがお好き (@tyokorata) 2019年4月11日
昔からそうだったのではという指摘もある。実のところそれはあながち間違っていない気がする。ただし、それが明確に分かるようになったのが最近の話、なのだろうなあ、と。情報の時系列・空間的な俯瞰が可能になったし、検証も比較的容易になって、ああこんな風にやらかしているんだな、というのが見えるようになったのでね。まぁ、ある意味、可視化のおかげって感じだ。
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