「言葉は通じるのに話が通じないという...これは奇妙な恐ろしさだった ...」https://t.co/f5hqJ1iZdf
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月14日
指摘されているような「正義」の暴走のお話ってのを見ると、確かに日本語によるやり取りは出来ているはずなのだけど、その日本語を介して行われる会話において、基本軸がずれているというか常識の線がゆがんでいて、話がかみ合わないという感覚はある。「言葉は通じるのに話が通じない」ってのは奇妙な恐ろしさであり、ある意味では言葉そのものが通じない以上に怖いしやっかいなものではある。言葉が通じないのではなく、常識が通じないとでも表現すべきなのだろうか。
この話からふと頭に浮かんだこと。最近の転生ものとかではよく登場する、自動翻訳機とか自動翻訳能力。あれって今件のような問題は生じないのだろうか。言語は解釈できても社会文化とかが異なったら、まさに言葉は通じても話が通じない問題が発生するような気がする。
作品ごとにその辺はどのような対応になっているかは別だけど、元々世界観が微妙に常識がずれているだけで、そのような話に遭遇しても「そうかこの世界ではこういうことだったんだ」程度で済んでしまうのか、自動翻訳そのものができないようになっているとか。あるいはその社会文化の違いそのものが話に深くかかわってくるとか。
これって創作の物語に限った話じゃない。海外の人とのやりとりでも文化の違いに驚かされるってのは結構あるし、同じ社会文化圏・言語圏内であっても、趣味の分野とか専門技術の分野でもありうる話だとは思うのだな。
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