常人とは思えない認識による内容のツイートを見て、ネタかなギャグかなマジとは思えない、とプロフを見るとその内容も同レベルのもので、この人はリアルで真面目にネタ的な存在なのか、心底なり切っているネタの人なのか、判断が付き難くなるようなケースがしばしばあるのです。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月25日
「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月25日
「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」
とはよくぞ言ったものです。
インターネット上で情報を見聞きする、特にソーシャルメディア上で意思表示のハードルの低さゆえに個人の感情の発露が容易に行われる場でのあれこれを見ると、果たしてこれは本心で語ったものなのだろうか、それとも本人はネタと認識した上での言及なのか、判断に迷う事がある。いや、こんなことを本気で語っているはずがないとプロフィールを確認するとその類の話が濃縮されていて、前後の語りもそれっぽい香りが120%凝縮された状態だったりして、何か見てはいけないもののふたを開けてしまったような気分にさられる。
特定のキャラになり切って語ったり応対をする、なりきりという文化というか遊びがある。それも今件のネタか本心か分からないの一形状ではあると思うのだけど。この人の特定の語り、さらには普段語りは本当に当人の日頃からの思惑によるものなのだろうか、常人のものとは考えにくい、何か軸がずれてやしないかと首をかしげてしまう機会には多々遭遇する。実力のある役者が役を上手く演じすぎて、それが本当のそぶりなのか役柄上の挙動なのか判断できないような。
ただ、ソーシャルメディアなどの上では、それがたとえ演技だったとしても、本心によるものだったとしても、いずれにしても他人への露出という観点では変わらない。そしてそういう性質のふりをしていたとしても、ふりかどうかなど分からないので、結局はその演じたものと同じとなってしまうし、そうみられても仕方が無い。
徒然草の「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」がよい例だけど、変な人のふりをしているつもりで行動していると、他人から見れば変な人にしか見えず、結局は本当に変な人と同じとなってしまうのだよね。「自分は好きで、あるいは仕方なく演じているだけ」という言い訳は通用しないのだな。
コメントする