非対称性が好ましくないのは、それを成す人の思惑で、不特定多数の正しい認識が阻害されるから。暴言、問題発言の類は日々多数の人によって成されているのに、特定属性の人のもののみが殊更に、しかも多分に状況を鑑みられずに編集され、問題視させられる。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月22日
それは先に触れた「色の流行を業界自身が設定して強要する」姿勢と同じなのですよね。ツイッターの言及に限っても(とはいえそれを公知している時点で講演会や街角での演説と同レベルですが)多数の問題発言が成されているのに、報道が取り上げて問題視するのはおおよそ特定属性のみ。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月22日
「あれは問題、それは問題じゃない」。その判断が特定の思惑で差配されているという実情が、どれほど危険なものか。その特定の思惑を持つ界隈の内情が、非常に危うげで、問題のある考え方を持つことが日々の発言で不特定多数に知られるようになって明らかになった次第です。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月22日
ここで述べている非対称性というのは、表向きは同一基準で精査され、その上でなら同じような判断・対応がされてもおかしくは無いのに、別の基準が設けられているかのような結果が相次いでいること。例えばテストの点数だけで合否を決めているという受験において、テストの点数がダメダメな人が受かって、満点に近い人が落ちているとかね(名前の書き忘れとかいう話は別にして)。
報道における取り上げ方、反復のされ方とかにおいて、非対称性が行われるのは非常によろしくなかったりする。公知能力が高いのと、権威をある程度持っている存在が、そのような非対称性の下に判断を下していたら、権利の乱用であるのとともに、期待されている成果を上げていない、生成物を生み出していないってことになってしまう。
公明正大に行われているはずの報道が、実のところはファッション業界の色の流行りと同じように、特定人物による思惑で左右されているってことになる。それはよいのか否か。
些細な内容のツイートでも問題視して大騒ぎして繰り返し報じたり、一方で暴言や妄言や失言ツイートを繰り返してもまったく触れなかったり。所属政党でこれほどツイート内容への取り扱いが異なる、報道の非対称性問題について考えたいのです。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月28日
「たかがツイート、別にどう判断してもいいじゃん」というご反論には「トランプ大統領のツイートの取り扱いはどうですか」という、実例が山ほどある説明でオシマイなのです。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年4月28日
例えばツイッターでの言及では、時折与党議員の話が否定的な切り口で取り上げられたり、問題視されたりする。地方の講演会での戯言も、聞き耳を立てて反復して否定的に騒がれたりする。けれど与党議員以外で同じような執拗度によるリソース投入がどれだけ行われているか。非対称性の問題の事例としては非常によいサンプル。
たかがツイートぐらい、どのような判断を下しても別にいいじゃんってことかもしれないけど、一方では公的な発言として騒ぎ叩く、他方は触れもしない、基準はどこにあるのか。第一トランプ大統領の話なら、ツイートを公言として取り扱って日々伝えているよね、あれはどうなのよ、という感じではある。
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