話題にしたくないから無視と思ってたがトンでもねぇのが現れたな。ヤツが将来どーなろうと好きにすりゃ良いが周りを煽るのは止めて欲しい。世に不登校は多くいるだろうがその殆どの親御さんは自らが夜も眠れず病むほど心配しているのが実際じゃないのか。そんな心配を他所に何が冒険だよ...勝手過ぎる。
— 生田よしかつ (@ikutayoshikatsu) 2019年5月6日
元不登校児の親として、本当にこの通りなんです
— mugi (@mugi53076842) 2019年5月6日
不登校でも大丈夫なのは自宅できちんと学習ができる子です
学力が低いままだと将来の選択肢が少なくなってしまうでしょう
大人になるっていうのは、誰にも頼らず自分自身を食べさせて行けるって事です https://t.co/upNPDAvwda
具体的に大元の記事は敢えて参照しないけど、タイトルにあるような事例が連休最終日辺りで色々と問題視された件。そもそもユーチューブの利用規定に違反しているだろとか、保護者側の経歴や実情を精査した上での持ち上げ方なのかとか、色々と直接的なツッコミはまた別の話として。あのような事例を賛美するような形で伝える報道機関とか、さらにヨイショする有識者とか、どのような脳内構造をしているのか、少々不思議さを覚えてしまうし、本心であのような所業が正しいという認識ならば、大きな問題という感は否めない。
美談のようにすら伝えている、感想を述べている人もいるけど。一種の虐待じゃないだろうかという気もする。あるいは保護者の隷属的な存在として認識しているような。第一、他の不登校の人達にも失礼な感もある。何より、恐らく、当人自身が不幸になる。
子供の頃「学校行かなきゃダメ」って言われたから反発してたけど、大人になるとあれが「学校ほど体系的な学習を低コストで行える場所は他になく、行かないデメリットも莫大で、支障がないなら行っといたほうが100%プラス。ゆえにお前のために強制する」を圧縮した言葉だったとわかる。
— よしたに@「ガンダム系の人々」2巻発売 (@dancom) 2019年5月6日
残念な現実ですが、「教育を受けてないと未来は狭まる」んだよね。
— KGN (@KGN_works) 2019年5月6日
今の社会は何も勉強してない人が通用するほど単純じゃないから。
教育ってのは社会で自分の思いを活かしながら生きていくためのツールなのだから、それが無いと十分な生き方はできないどころか、ロボットのような生活を強いられかねない。異世界転生とか転送したけど、その世界の言葉は知らないし、社会常識も分からないっていう状態になったらどうする? まさにそういうレベルの話。
資格や免許ってのが「なんのためにあるのか」「何を表し、だれにわからせるためにあるのか」を考えておくこと、世の中生き抜くためには割と必要。
— 紅礼 郷梨 (@gre_goriy) 2019年5月6日
まぁ、日本の今の時代、知識なんてものは本屋やネットがあればいくらでも手に入ります。
— 紅礼 郷梨 (@gre_goriy) 2019年5月6日
ただ「どの程度の教育受けてきたか」を他者が測る基準になるのが何であるかということを考えると、いくら「俺はこれくらいできます!」って言い張っても相手がそれを信じてくれるかどうかわかるよねぇ。
職人の腕を見るには作品を見ろ、という言葉や思想があるが、あれは職人の「技術」っていうのが作品にでるからです。
— 紅礼 郷梨 (@gre_goriy) 2019年5月6日
では、そういう「物体としてわかりやすいもの」ではない、その人が持つ「知識レベル」を測るには何を第三者は見るか?
それが結局のところ、学歴・礼節の振る舞い・人脈なのですよ。
学歴は、「最低限どの程度の教育を受けてきたか」を測れる。成績があればさらに「その教育の中でどの程度の理解度はあるか」を測れる。
— 紅礼 郷梨 (@gre_goriy) 2019年5月6日
礼節の振る舞いは、「どの程度のレベルの家庭で育ちどの程度の"常識"を理解してるか」を測ることができる。
人脈(コネクション)は、「どの程度の階層とどの程度話が合うのか、そしてどういった嗜好思想主義などの方向性を持つ者なのか」を測るポイントになる。
— 紅礼 郷梨 (@gre_goriy) 2019年5月6日
無論、「測った部分がその相手の全てではない」が、少なくとも第三者が相手の最低限度を測る「目安」となるのがそれらなのですよね。
— 紅礼 郷梨 (@gre_goriy) 2019年5月6日
なので、
— 紅礼 郷梨 (@gre_goriy) 2019年5月6日
「身だしなみはきちんとしなさい」
「マナーをちゃんと身につけなさい」
「言葉遣いをきちんとしなさい」
「友人関係などの付き合いをする相手はきちんと考えておこないなさい」
「きちんと勉強しなさい」
ということが子どもに教育されるのは
別段、「あたりまえのことだから」「みんながしてることだから」ではなく、「その程度きちんとできるかどうかやどうするのかで第三者からあなたが測られるから」ってのを親が理解してればこそする苦言なのですよね。
— 紅礼 郷梨 (@gre_goriy) 2019年5月6日
教育課程ってのは資格とか免許ってのと同じ...というか教育課程の中で取得できるものでもあるし、教育課程を経たことを明確に認識できる印みたいなもの。どこそこの大会で賞を採りました、何とかのコンクールで優勝しました、とかいうのと同じ。いわば勲章だな。「俺は車の運転が超上手い」と自称されても、免許証を見せてくれなきゃ始まらないよ、的な。
「大卒で無いと就業できないから、とにかく大学は無償で誰もが入れるようにしろ」という労組関係者のお言葉がある一方で、今回のような話も出て来るとか、色々と「ネットは広大だわ」という脳内イメージがわいてくる。個人的には土日になると定期的に周回してくる宗教の勧誘で、布教者の親に付き合わされるというか一緒に顔を見せる子供のような雰囲気があったりする。
極論としてあの親子自身の行動は自己責任としかまとめようが無いのだけど(規約とか法令への抵触はさておくとして)、それを肯定的・賛美的な話として持ち上げた某新聞社や、それに同意して太鼓持ちした有識者の人達は、相応の「評価」という反応をされるべきなのだろうなあ、というのが個人的感想ではある。
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