新元号への思いとガラパゴスと「メディアと文化人」と

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新元号で日本がお祭り騒ぎのような艶やかさを覚え、昭和から平成に変わった時と比べると随分と違うっぽいなとか、やはりかつての元号を変える理由まで思い返すとこういう姿勢こそがあるべき姿なのかなと思う一方で。

文化人や社会学者的な人やメディア関係者には少なからずにおいて、水を差したり揶揄したりガラパゴスだとせせら笑ったり喜んでいる人を嘲笑する人がいる。思想の多様性との観点ではそういうのもありなんだけど、同時にその内容について批評をするのもまた自由。自分は好き勝手にいうのは認められるべきだけど、それについて批判されるのは辛抱ならぬってのはおかしな話......ってああ、これアレだ。今流行りの「私のヘイトはよいヘイト、私にとって都合の悪いヘイトは糾弾すべきヘイト」という、ポリコレ棒事案だわな。

ガラパゴスを否定的に扱うってのも、個人的にはあまり好きじゃない。だからガラケーって表現も好まない。ガラパゴスって表現、結局は個性とか独自性の否定じゃないのかな。


指摘の通り一連の新元号にかかわる流れを見ていると、メディアの構造というか環境が大きく変わって来たよな、というより大きな広がりを見せているよな、という感はある。くだんのコラムニストに限れば、あのような粋がった、正当性を声高に語る手法ってのは、情報の一方方向性が強い時代においては有益な手法ではあったのだけど、瞬時に多方面に伝達されて検証され相互作用する多方向性・双方向性の時代では、むしろ道化にしか見えなくなる。

あるいはわざとあのような粋がりぶりをしている、との擁護もあるかもしれない。新聞関係者の公式アカウントにも多分にそういう節のものがある。しかし何百年も前に徒然草で「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」と語られている。ふりをしているのは結局、それそのものになっているのと同じになりかねないのだよね。その観点では、可愛そうなものではある。

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このページは、不破雷蔵が2019年5月 2日 07:56に書いた記事です。

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