「ぼくたちは勉強ができない」、10代の頃に読んでたら、自分の進みたい道へ努力する姿が胸を打ったんだろう。でも大人も長いことやっていると、桐須先生の「本人のやりたいことよりも、向いている道へ。才能を無駄にしない道を進ませるべき」の方を支持してしまう。
— karzusp (@karzusp) 2019年6月2日
最近は時々読むようになったジャンプで目を通している作品の一つ、「ぼくたちは勉強ができない」。その中でちょいと気になる背景を持つ桐須先生の語りというかスタイルが、指摘されているような「当人の才能を無駄にしてしまわないよう、例え本人があまり好きなもので無くても、向いている道に向かわせるべきだ」というもの。
ゲームとかなろう系ラノベじゃないんだから自分のステータスが数字的に見えるわけでは無いので、特性など他人にも自分自身にも分かるはずはなく。そうだと思っていてもどこまで正しいのかが確証できない、分からないってのはつらいところではあるのだけど。向いている道ならばそれで他人の役に立つことができるし、自分も色々な対価を得て行動領域を広げることが可能になる。
やりたいことと向いていることが同一、あるいは連動するものならいいんだけどね。その辺りも含め、可視化されると寄り道とか骨折り損とかしなくて済むのだけど。人生はリセット技が利かない。この辺りの話って以前の【他人に喜ばれること、自分がやりたいこと、自分で出来ることが大切】とも連なってくるなあ、と。だからこそ、人を見る目がある人ってのは非常に重要な存在ではあるし、評価されるべきではある。
以前医者に「人間は自分の得手不得手を勘違いする」と言われた。なんでも、得意な分野は難しさを理解出来るから苦手と感じて、苦手な分野は簡単なことしか見えないから得意と感じるそうで。
— 榎宮(@yuukamiya68) 2019年5月27日
つまり不得意なことほど出来る気になる。これ構造的欠陥では。
時系列的に話は前後するけどこういうのがあって、あるいはこれも連なったものなのかなと思ったりする。無論これがすべての事象に当てはまるとは限らないけど、理解できるものほど長所も短所も分かるので、短所の部分でマイナスイメージが強く刻まれてしまう。理解できないものはその辺が分からないので、自分の都合のよい表面部分だけすくってしまうから、良いものだと思ってしまう(表面部分がたまたま悪いものだったとしたら、手に取った時点でそこから離脱するので、考慮そのものが行われない)。
これって本当に分からない人は何が分からないのかすら分からないとか、分かっているように自覚する人は分かっている表面部分だけを認識しているから、実のところはちっとも理解していないとか、その類と同じような気がする。
その辺の認識の問題というか、ある意味生存者バイアス的な物をがっつりと自覚していれば、自分が苦手だと思うものに敢えてごりごりと突っ込むことで、尖がった能力を得られるようになるかもしれない。バグを逆に使いこなすってわけだ。単なるMみたいな感じもするけど(笑)。
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