映画は読書等と違い「相手のペースに合わせないといけないもの」なんで、偶にキツい時がある(その「キツさ」が最終的に「良さ」を得る為の条件になってる感も)。ウチの父は「だから映画館嫌い」と言ってた。冗談でなく「映画はただ座ってれば自動的に楽しい事が運ばれてくる!最高!」と言う人は凄い https://t.co/WLplfBtQtc
— どう即 (@pc_unko) 2019年6月26日
俺もこういう感じなのでアニメを積極的に見出したのがネットで気軽にシークバー弄って見れるようになってからというくらいだけど、本読んでるときも自分のペース云々ではなく読んでたはずなのに数ページ分の記憶がなくなってて戻って読みなおすとかあるんだよな(怖い)
— うなぎ(steel_eel) (@dancing_eel) 2019年6月26日
テレビやラジオのような電波媒体は受動型のメディアで、自分が特にアクションを起こさなくても勝手にコンテンツが流れ込んでくる。楽と言えば楽だけど、自分でスピードをコントロールできないのが難点(録画したものとかなら別だけどね)。新聞や雑誌は能動型メディアで、自分で意識的にそのメディアから情報を取得しようという強い認識が無いと楽しむことはできないけど、だからこそ自分自身でペースを調整できる。よいところどりをしたのがいわゆるオーディオブックだったり動画再生サイトだったりするわけで。
映画にしてもコンサートにしても、決められたスケジュールで一方的にコンテンツを提供してくるというスタイルのエンタメは、昔ならば技術の関係で当たり前のものではあったし、その拘束が面白さをかき立てるエッセンスだったという指摘も間違いではないのだけど、技術の進歩発展で能動的な楽しみ方、ランダムアクセスが可能な時代になると、無理に受動的なスタイルでの利用にどれほどの意味があるのか、考えてしまう。
一番分かりやすいのは、ネットはおろかビデオデッキすら無かった時代のテレビ放送。再放送の可能性があるにせよ、基本は一度放送されたらオシマイ。見る時の気合の入れようは(数字化はできないけど)恐らく今と比べるとけた違いに大きかったに違いない。そのような環境下でのテレビ番組、特にエンタメ系のものに今でも人気がある、強い思い入れを持つ人は多分に、そのような環境下で楽しんだからではないかな、と。
物事をどのように楽しむのかの選択は人それぞれであるし、楽しめるスタイルが違うのは個性ゆえのもの。同じコンテンツでも提供され方の違いで、楽しめる人もいれば窮屈さを覚える人もいる。その意味で、技術の進歩発展によりコンテンツの提供スタイルが増えて、選択肢がたくさん用意されるようになり、自分にあった提供方法を選択できるようになったのは、良いことに違いない。
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