TLに時々晒し上げされている反知性的なツイを見るにつけ、現代日本では「常識を疑え」という類のことを言うよりも、「まず常識を身につけよ」と言うべきではないか?
— おごちゃん / 香港加油 (@ogochan) 2019年6月27日
「常識を疑う」のって、上級者向けだよ。
基礎的なお勉強すらしてない人達にとって、「常識を疑え」って言葉は甘美なんだよ。「勉強しなくていい」って言われているように聞こえるから。
— おごちゃん / 香港加油 (@ogochan) 2019年6月27日
本当は常識がある人が疑うことに意味があるのに。
そもそも、「常識」ってものが身についていているから、「疑う」ことの意味がある。何もない人が疑ったところで、客観的には「無知を晒している」以上のことにはなりえないの。
— おごちゃん / 香港加油 (@ogochan) 2019年6月28日
既存のものを覆したかったら、まずそれを理解し身につけろ。「疑う」のはその後だ。
「知らないものは疑えないんだよ」
— KGN (@KGN_works) 2019年6月27日
「『常識』を疑う資格があるのは、十分知ってる人だけ」
これ結構多いですからねえ。>RT
「常識を疑え」というフレーズを盾に、常識知らずなことを正当化する人ってのは必ず存在する。なんというか「常識を疑え」を無敵のキーワード的なものとして認識し、破天荒な、常識から外れるようなことでも自由にやっていいし責任は一切取られないんだ、的な捉え方をしている感はある。
けれど「常識を疑え」ってのは自分で常識を取得した上で、それが正しいものかどうかを再検証しなさいという意味で、再検証する対象もないうちに疑ってみても何の意味もない。それこそ指摘されている通り、(勉強をするのがイヤだから)勉強をしていないのに、勉強するという常識を疑えってのは、単なる自分の怠惰を正当化させているのに過ぎない...ってなんか最近この類の話を聞いたことがあるな。
素人が「型破り」をしてもそれは「形無し」でしかない https://t.co/IMMviP8Fbq 7年前の話
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年6月27日
土台となる基礎知識が無いと足元をすくわれる https://t.co/Nt1zb7Hxja こちらは2年前
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年6月27日
似たような、というか意味としてはまったく同じ話は以前も何度かしている。型破りをするのにはまず型を取得しなければならない。それができないうちに型破りをしても、それは単なる形無しでしかないのだよね。
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