あー。もう。
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2019年7月16日
某誌から「サブスクリプションの解説コメントを」と言われたので電話取材に答えた。
そこで「サブスクリプションは会員制という意味で、イコール定額制、と書くのは間違いですよ」と強調したのに、
帰ってきた原稿では「わかりやすくするので定額制の意味にしました」との先方コメント。
そういう原稿の作り方がメディアの信頼性を失わせる。
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2019年7月16日
そして、コメントとして解説している人間はその間違いを広げるのに加担したように見える。
最低。
わかりやすさやキャッチーな見出しへのチャレンジは常に必要で、まさにジレンマなのだけれど、「本質からずれた言葉が定着する」こと、「ちょっとした説明による離脱を恐れて分かりやすさだけを重視してしまう」ことの問題点も考えてほしい。
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2019年7月16日
おかゆだけではアゴにも良くない。
「分かりやすいが正しいとは限らない」の言い換え的なお話。限られた分量の中で、あるいは受け取り側の受け取り時の時間を短時間であるとの想定の上で情報を絡める場合、どうしても端折ることが必要となる。1冊分の小説の内容をざっと解説する概要説明などがよい例。
けれどそのまとめを分かりやすくするのを一義的にしてしまい、本来の全体との比較で内容がまったく別物になってしまうとしたら、それはまとめでは無い。たまに有名な話を雑に、勘違いした形で単文にまとめるというお遊びが流行るけど、報道はお遊びじゃない。
さらに、情報発信側の思惑通りに受け取り手が認識するような誘導や、とにかく目に留まってもらうようにとインパクトのあるフレーズが乱舞したりなどという話になると、それはもういわゆるイエロージャーナリズム的なものとなる。
「分かりやすければ間違ってもOK」という報道界隈の話を頻繁に見聞きするにつけ、「分かりやすく、そして何より極力正しく物事をまとめる」という要約力(国語能力)の絶望的な不足感が、報道に蔓延しているのだなとの実感を覚えざるを得ない。分かりやすさありきで間違ったことを伝播するのは、ペテン師と同義なのだよね。
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