コンビニのごはんも、家のごはんも、豪華なご飯もそれぞれ味わい方が違い、それぞれのおいしさがある。自分の舌に切り替えスイッチみたいなものをつけておくと、何でもありがたくおいしく食べられると思います。
— 有賀 薫 (@kaorun6) 2019年7月1日
つまり何が言いたいかというと「おいしいものを食べる」のではなく「おいしくものを食べる」のがいいんじゃないかなってこと。
— 有賀 薫 (@kaorun6) 2019年7月1日
それでも自分にとって嫌いなものは不味いし、美味しく食べるなんて無理だよ、といわれてしまったらぐうの音もでないし、それ以上の反論は避けながらフェードアウトしたくなるのだけど。
食べ物のそのものの旨味とか品質とか食べる側の好き嫌いとかという要素も多分にあるけど、結局その食事が美味しいか否か、しいては自分にとって満足のいくものとなるのか否かってのは、自分自身の心構え次第では無いかなという考えは、あながち間違ってはいないと思う。妄想にとらわれて食べちゃいけないレベルの不味さまで美味しものと強制的に判断してしまうのは問題だけど(そもそも「美味い」「不味い」は安全・危険の判断のためという考え方もある)、食べる側の姿勢で美味しさってのは少なからず変わって来るかな、と。
引用元では自分の心構えで随分とかわってくる、同じ食品ならば自分自身のスイッチの切り替えで美味しく食べるようにした方が何かと得だよということを説いている。美味しいものを食べるというよりは、美味しくものを食べるって考え方がよいってのは、言い得て妙。
例えば一人飯よりも卓を囲んで皆で食べる方が美味しいって話があるけど(そうでない人、気分の時も多々あるけど)、これもまた、美味しくものを食べる方法論の一つではないかなと考えたりする。人は身体を維持するために食事をするけど、気持ちはまた別の問題。先日「食事の時間なんてもったいないから流動食みたいなので十分」という話があがっていたけど、あれって結局、合理的ではあるけど、食事の必要性から感情部分をざっくりと削除した結果なんだよね。
食事は創るのも食べるのも楽しい。楽しさをいただくようなものでもある。それが無ければ未来の物語に出てくるような四角い栄養剤とか、重症で入院した時の点滴やら栄養剤の投入で問題ないってことになってしまうからね。
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