設定考察関係者が他の作品に関する設定についてドヤって四方八方からツッコミを受けているのを見て、この方の監修した作品、大丈夫なのかなと不安がる系当職。作品における世界観、設定は、その作品に直接描写されねばならないわけではないのです。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年7月2日
設定として、世界観がこのような仕組みになっているから、結果としてこういうことが起きている、こんな感じの描写が出ているというのが多分になる。読者が、視聴者が見ているものが世界のすべてでは無く。物語を通して透ける世界そのものに理不尽さ、矛盾を感じさせないのが設定のお仕事。
— 不破雷蔵 (@Fuwarin) 2019年7月2日
具体的なツイートは引用しない優しみと、設定考察関係者に限った話ではないけど、という前提の上で。こういう話があって、色々と考えさせられる。どのような肩書を持とうとも、個人は個人であり、考え方をどのような形で発信しようと自由であることに違いはない。
ただ、その内容次第では語った本人の人格や信ぴょう性が問われるだけでなく、肩書そのものの確からしさ(肩書そのものが嘘か否か、では無く、その肩書の示す性質、スキルのレベル)が問われてしまう。今件ならば設定を作り上げる仕事をしている人が、他の作品の設定についてドヤった話をして、不特定多数から間違いなり偏見だとの指摘を受け、第三者から見たら恥ずかしい状況になっているってのは、その人がこれまでやってきた仕事そのものの品質が問われるのでは、と思われても仕方がない。
自分の肩書や仕事の上での立場を公開し、リンクする形で発言をしている以上、その発言内容は自分の肩書や仕事と深く結びついて考えられる、判断されるということを忘れてはならない。都合のよい時だけ肩書の権威を利用し、都合が悪くなったら単なる一個人の発言です、というのはムシが良すぎる。この件は報道界隈、特に新聞記者のSNS利用において、何度となく述べてきたことだけどね。
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